村上春樹「街とその不確かな壁」2023年8月

読書会概要
日時 2023年8月26日(土)19:00〜21:00
場所 東京都内 某居酒屋
参加者 団長 画家(初老の人) 奥様(初老の人の妻) 書記
課題本 村上春樹『街とその不確かな壁』     
課題本推薦者 医務

読書会経過

団長:新作はぜんぶ読みましたか?

奥様:がんばって読みました。例のごとく、よくわからなかったんですけど。ファンですか?

団長:ファンじゃないです。ハルキストじゃないです、けど……

書記:私はハルキストに片足つっこんでますよ。

奥様:そうなんだ。

書記:好きです。

画家:医務さんも好きでしたよね。

書記:そう、医務さんが今回の本の推薦者だったんですけど、今日は参加できなくなってしまって残念です。

画家:奥様は昔からね、長い小説読んでたんだよ。ロシアの文豪の……

団長ドストエフスキー

画家:そう、ドストエフスキーとかトルストイとかの長い小説を若い頃よく読んでたみたい。

奥様:一度読みだすとね、なんとなく終わりまで字を追っていっちゃうから。

団長:それ羨ましいですよ、俺は制約がないと読めない、こういう読書会とかないと。

奥様:今は時間があるから。あと若いころね。でも結婚して子育て中は余裕がなくてぜんぜん読めなかった。本を読むっていう習慣がすっぽり抜けちゃって。だから子育て中の十数年間はほとんど読んでなかった。

書記村上春樹以外でしたら、今はどういった本を読んでますか?

奥様:いやもう手あたりしだい(笑。

団長村上春樹、面白いですか?

奥様:うん、読み始めると面白いよね。わけわからないんだけど、なんとなく読み進めていけちゃう。最初は『1Q84』が話題になったときに友達から勧められて貸してくれたから読んで、それからは図書館で借りて。ただ私が行く図書館の本って汚いのよね。

書記:ははは。

奥様村上春樹の本ってこれもう何人触ってんだろうって思うくらい。

団長:手垢にまみれて破れてたり(笑。

奥様:でも買って読むのは……けっこう値段高いし、残っちゃうのもね、買って読むほどじゃないかな。今回はたまたまね。古い本だとね、ネットで安く買えるけど。

画家:奥様がよく読んでる小説家で、篠田節子っていう小説家がいてさ……

団長:ああ、『絹と変容』の。

画家:むかし私が勤めてた職場の後輩で面識があって、仲間内では「せっちゃん」と呼んでた。同じ時期に職場を辞めて、当時チェロか何かやってたのかな……

奥様:チェロを題材にした本を読んだよ。

画家:『絹の変容』はデビュー作だから記憶してるけど、面識はあっても私の方は本はぜんぜん読んでなくて、奥様はよく読んでるんだよね。

奥様:みんな読んだよ、篠田節子さんの書くストーリーは面白い。

画家:一時は紅白歌合戦の審査員席に座ってた。

団長:へえ、直木賞受賞した頃かな。

書記篠田節子さんって何歳くらいの人ですか?

奥様:六十くらいじゃなかったかしら。

書記:紅白の審査員席に座ってたということは、NHKのドラマに原作者として関わったりしてたんでしょうかね。

画家:ああ、そうかもしれないね。

奥様:画家さんはね、若いころいっぱい本を持ってたから読書家なのかと思ったら、ある部分をピックアップして、要するにぜんぶは読まないの、最近でもないけど年とってからわかったんだけど、必要なところだけ拾い読みするだけ(笑。

書記:でも必要なところを抜き出せるってのは、それはそれで凄いことですね。

画家:わがままだから、要するに文学として読むんじゃなくて自分に鎧をつけるような感じでね、「こんなこと言った」「俺もそう思う」「そうだろう」みたいな、若いときですからね、必死で鎧つくって、それであとにたまたま本が並んでただけで、鑑賞もしてないし、ちゃんと理解もしてないんだよね。でもブログなんか見てると「団長」はやっぱりいわゆる読書人で、本の内容によく精通してて……

団長村上春樹って、後期になるとお父さんの影が出てくる。「父親」というキャラクターがよく出てくるようになって、『猫を棄てる』っていう自分のルーツを綴った随筆のなかでは、階級の高い引き揚げ軍人だったお父さんのことが中心に書かれてて、新鮮でした。今回の作品とからめて考えれば、やっぱり父親が出てきますよね。

書記:少年の父親ですね。

団長:そう、第一部で、主人公が十代半ばのときに好きだった女の子とのやりとりを書いてて、その女の子から聞いた「街」の話が出てきて、第一部では家族的なものはあまり出てこないんだけど、第二部になったときに子易さんという一風変わった幽霊が出てきて……それで第三部にかけてイエローサブマリンの少年がいなくなるのをきっかけに少年のお兄さんたちやお父さんが出てくるんだけど、少年はそういう家族的なものとは別の次元で生きてて、それからもう一つポイントなのは母親が出てこないこと、村上春樹の全作品を通じて「母親」が出てこないというのは一つの特徴ですね、「父親」はちょくちょく出てくるようになったけど。

書記:「母親」が表舞台に登場するということは確かにないですね。『街とその不確かな壁』という作品にかぎって言えば、「母親」の存在は仄めかされてはいて、まあ、この作品では少年と唯一話ができる存在として「母親」は描かれていますね、だから余計に登場しないというのがひっかかる、それから「母親」という存在をどうしようもなく強く感じさせるのはやっぱり子易さんの過去のエピソードで、彼の妻なんですけども、その母親的な存在が、事故で亡くなってしまう子易さんの子の、事故当時いちばん近くにいた母親として描かれているというのが何か……その出来事を通じて「母親」という存在を強烈に際立たせているというか……けっして表舞台には登場しないし、物語に明るい面があるとしてもそうした場にはけっして現れない、物語の本筋からあえて遠ざけられている感すらあります。

団長:『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のもとになった中編『街と、その不確かな壁』では、おじいちゃんと娘は出てくるけど、親は出てこない。今回の作品でお父さんは出てくるけど、お父さんのことを気にしない少年が出てきて、その少年は主人公の夢読みの職業を引き継ぐ。こうした引き継ぎが行われるときに家族的な要素は関係してなくて、村上春樹なりの家族的なものに対するメッセージというか。幼稚園の経営者、教育者であるお父さんを少年は無視して、主人公から夢読みという職業を引き継いで、それで突っ切って終わる。

奥様:私はこの作品の出だしがわからなかったんだけど、はじめは若い女の子と男の子が惹かれあってあるとき女の子が壁のある「街」の話をする、その女の子は「影」だったわけでしょう、その女の子はもともと「街」で暮らしてて、現実の世界で男の子に「街」の話をした女の子は「影」という設定なのかしら、それで突然消えちゃったわけでしょう?

団長:今回この作品を読書会でやるということで、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだんですよ、世界の終りという章と、ハードボイルド・ワンダーランドという章と、二つの世界が交互に展開していく構成になっていて、関係のないストーリーなんだけど読んでいくと最終的に合流していく仕組みになっている。その中に、もちろん「街」は出てくるし女の子も出てくる、それで「街」の中の「影」の位置づけももっと整理されてて、「影」と、「獣」っているじゃないですか、一角獣という「獣」がいて、「門番」(門衛)とか、「獣」がなんで門の外にいるのかとか、そうしたことが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではすべて説明されてるんですよ。「影」って何なのかというと、要は、「心」がないということがポイントになっていて、壁の内側に住んでいる人たちは「心」がない人たちという設定で、「影」を失った人たちというのは、「心」を失った人たちという形で、そのかわりずっと、苦しみとか悲しみとは無縁で生きていられる。なんでそういうことが可能かというと、「獣」が門の外に出るときに、人が門に入るときに「門番」から引き剥がされて死んだ「影」を「獣」たちが門の外に運んで、こんどは「獣」たちがその「影」の魂を抱えたまま死んでいく、冬になると。それで、死んでいった「影」の魂の残りかすが「獣」の頭蓋骨にあって、要は「獣」の頭蓋骨に残っている人の魂の残りかすを読むことによって、「街」に不必要な苦しみとか悲しみつまり「心」を大気中に発散し、循環させる。だから「街」の人々が生きるためには「獣」と夢読みという職業が必要になる、といったことが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では種明かしがされているんですよ。でもそうした種明かしは、新作では、村上春樹がいらないと判断したのか書かれていない、そればかりか「街」の定義を微妙に別の意味に変えている。新作で面白いと思ったのは、夢読みがまず継承されていくということと、夢読みという職業が主人公の前にも代々いたことがわかって、夢読みをする人物が代わる、継承されるたびに「街」はその様相を変えていく、というふうに読みとれること。あとこれは新作では出てきてないけど、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の方では、壁のある世界の門の内側に「森」というものが出てくる。「森」にはどうやら森の住民がいる。でも森の住民に対しては、門番(門衛)もあまり関わりたがらない。森の住民とは何なのか、それは「影」が逃げてしまった人たち、つまり「獣」が関わる「影」の処理の仕組みにうまく乗れなかった人たちが「森」の中をさまよっている、といったこと。それを踏まえれば、女の子の失踪の秘密にもたどりつくことができる。

書記:「森」の存在は重要です。解釈の方向性を変えたり、固めてしまったり……あえて新作では詳しく語らなかったかもしれませんね。でも村上春樹の過去のインタビュー、たぶん『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いてまもない頃のインタビューで、彼は「森」を書けたことが収穫だった、というような発言をしています。

画家:僕は『街とその不確かな壁』は読んでなくて、図書館のコピーを書記さんに送ってもらって『街と、その不確かな壁』しか読んでないんだけど、なんか、僕は唐十郎が好きなんだけど、ああいう、日常的な言葉や物を使っていつのまにか不思議な世界に連れていってくれる、そういう部分で似てるなという感じがして、でもここまで話をうかがってるといわゆる「文学を読む」っていうのはそういうことなのかなと、表現も品がいいしね。

奥様:現実の世界と同時進行で、ぜんぜん別の世界が存在する。

画家:素敵、長いものは読めないけどね。

奥様:私は唐十郎の演劇はあまりだめでね、うるさくて。ついていけない(笑。

画家:僕は小説を読むエネルギーについていけない(笑。でも今回こういう経験をさせてもらってよかった。

団長:大学で「読む」環境の中に比較的長くいたけど、「読む」ことって特殊だと思います。でも「読む」のとは別に、圧倒的にわからないのは「創作」で、画家さんが絵を描くときって、いろいろな条件はあると思いますが、まず体が動く感じですか?

画家:私はもともと自己中心的な人間だから、自分が子どもの頃に感じたもの、「寂しさ」ですよね、それにもう一回浸れたら嬉しいなという、ただそれだけの話。

編集後記

10代の終りに読んだ『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が、私の出発点だった。最初に読んだ村上春樹の小説というだけではなかった。
ある場合に一つの長大な物語が文章という形をとって現れ、目の前に立ちはだかることが必然と思えたとき、当時の私は挫折し、絶望した。そしてやたら多くの逃避が、見て見ぬふりが、流し目があり、掠めどったいくつかの短いフレーズが燃え、灰になった。要するに一つの物語のために長い時間を読書に費やさざるをえないことが苦痛だった当時の私に、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説は、はじめて読むことの自信を植えつけてくれた。その自信の根拠が浅はかなものだったとしても、以降の読書遍歴にとって決定的だった。
1Q84』が出版されたとき、私は東京の品川に住んでいて(今は違う)、深夜の台所だけでなく京急線の車内、池畔や歓楽街のカフェなどで読みふけり、あっという間に読み終えた。この本(『1Q84』)は村上春樹作品の集大成であり、彼の文学のすべてをかけて、おそらくこれ以上の発展のないところまで極まった小説であると思った。だからここにきて、著者自身に葬られた中編小説「街と、その不確かな壁」の問題に決着をつけようという彼の想いは自然に受け入れられた。「街と、その不確かな壁」をはじめて読んだとき、すでに前に二作の優れた小説を著している作家のものとしてはとくに冒頭と結末部の若書きに驚いたが、新鮮でもあった。ここでは書けないけども、とにかく「街と、その不確かな壁」は問題だらけだった、読者からすれば良くも悪くも。
6年ぶりではなく、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』から38年ぶりの新作長編『街とその不確かな壁』は、その問題に満を持して取り組んだ著者渾身の成果であり、読者共々の成就になった。

[書記]

 

田中兆子「片脚」読書会2023年4月

読書会概要
日時 2023年4月8日(土)19:00〜22:00
場所 東京都内 某居酒屋
参加者 団長 医務 書記
課題本 田中兆子著 「片脚」
     短編集『私のことならほっといて』
              (新潮文庫)所収
課題本推薦者 団長

田中 兆子(たなか ちょうこ)
1964年富山県出身の小説家。
2011年短編「べしみ」で新潮社主催の【女による女のためのR−18文学賞】を受賞。
2014年、同作が収録された短編集『甘いお菓子は食べません』が新潮社より刊行、デビュー作になる。
2019年長編『徴産制』が【センス・オブ・ジェンダー賞】を受賞。
同年6月、短編集『私のことならほっといて』が新潮社より刊行。
現代女性の孤独と官能的欲望をテーマに、現実的手法と真摯な姿勢で描かれた物語世界の緻密さに引き込まれる一般読者は多く、一方でフェミニズム批評的な視座から好評を得ている作家である。

「片脚」内容紹介
家に帰ると《私》のベッドの上に夫の左脚があった。夫は今日、葬式の後に火葬場で焼かれた。
崖の下のおばさまに相談すると、おばさまは「火葬屋さんからの厚意だから、ありがたく受け取っておけばいい」と云い、「うちは右脚だったな」と笑う。おばさまは村の者から《ママのばば》と呼ばれていた。《ママ》とは崖のことをいうのだそうだ。村では同じよそ者の《私》のことを何かと気にかけてくれている。
ベッドに片脚を置いておくのも気ぶっせいで、夫のベッドに移す。だが翌朝目覚めると、夫の片脚はずうずうしくも《私》のベッドにどってりと横になっていた。かっとなった《私》は片脚にベッド・カバアを巻きつけ、玄関脇の納戸に突っ込む。子どもの頃、お仕置きとして施設の職員に物置へ閉じ込められ、泣いて暴れたことを《私》は思いだした。だが、納戸の片脚はことりとも動かない。
車で街に出る。若い男を物色して村に戻ると、玄関の上がりかまちで夫の片脚が《私》を出迎えた。それは仁王立ちして《私》を責めているようだった。
ああ、うっとうしい。もう我慢できない。
「もし、村の未亡人に再婚がきまったらーー」と、《私》は床に臥すおばさまの耳もとに尋ねる。「その方は夫の片脚をどうしていたのでしょう?」
「山へ捨てる」と、おばさま。
「山って、どこですか」村には山がたくさんある。
「あんたは……捨てられないよ」おばさまはそう云うとふうと一息ついて、目を閉じてしまう。
《私》はタオルでくるんだ夫の片脚をかかえ、おだやかな天気の日、夜の三時半に家を出た。

読書会経過

団長:田中兆子はSFっぽかったり純文学っぽかったりする作品をいっぱい書いてて、この人自身がけっして若い人ではなくて64年生まれだから、まあちょっと古いタイプの小説で、『徴産制』っていう長編小説を手に取ってはじめてこの人の小説を知って、買ってぜんぶは読んではないんだけども、人口減少を解決するために男性をむりやり性転換させて人口を増やそうとする政策を日本がするっていう設定で、けっこうリアルな話でもあって、でもそういう設定だけの人だったら読まなかったと思うんだけど、文体を見ると、なんていうかな、女性作家の切れ味鋭いというか、キレのある文体だし、登場人物の設定が作者より古い世代、たぶん著者にとっては親の世代の話を書いてるよねきっと。「片脚」で言ったら、戦争孤児だった女性が主人公だし、現代的なテーマで時事ネタをうまくSFっぽく書く器用さはありつつ、でもキャラクターの設定は1945年から5年10年のあいだ幼少期を過ごした人の設定になっていて、他の短編もだいたいそんな感じだし、だからちょっと不思議な人だなというのはあった。

書記:そういえば田中さんが実際読んできたという作家がそのへんの、いわゆる戦争孤児の当事者だったとしてもおかしくない世代の作家ですね、古井由吉金井美恵子などはおそらく。

団長:戦争孤児というものに対するこだわりはあるかもしれない。本人は64年、はじめて東京でオリンピックが開かれた年の生まれで、高度経済成長期に幼少期を過ごしているような世代だから、だから親の世代を作品に書きたいというのはあるんだろうな。「片脚」では、おばさまっていう主人公の唯一の理解者が出てくるけど、それもけっして親ではない。

書記:この「片脚」にしても、短編集を読むかぎりではたぶん芥川賞の候補にはなりにくいような作品を書く人みたいですね。

団長:ならないと思う。わりと計算高さもあるから、純文学の枠の中だけで書いてるような感じではない。

書記:どちらかというと直木賞かな。

団長:獲って直木賞……直木賞はまだ獲ってないのか。なんかあまり聞いたことないような文学賞獲ってるね。

書記:新潮社の女による女のためのR−18文学賞を獲ってはじめて短編が評価されて、そのあと『徴産制』でセンスオブジェンダー賞を獲ってて、どちらの賞の名前からもフェミニズムの立場から一定の評価を受けている印象です。

団長:そうそう、そっちの方かもしれない。でもそれ知ってて今回この作品を選んだわけじゃないんだけどね。

医務:(団長さんが)選ばなそうな本だから意外性があった。勧められなかったらたぶん一生読まなかったかもしれない。

書記:はじめは蓮實重彦にしようとしてましたよね。

団長:そう『伯爵夫人』、あれはもうなんか下ネタ多すぎて、さすがにやめた(笑。でも『伯爵夫人』を、あれはこういう作品ですよって言ってる人はいないから、やっておけば話のネタくらいにはなるだろうなとは思った。

書記:(『伯爵夫人』は)小説ですか?

団長:小説です。ほんと面白い。

書記:(蓮實重彦は)評論活動の方が多い人ですよね。

団長:日本文学の研究者からはもの凄い嫌われてて、まず蓮實文体が嫌われるんですよね。

書記:独特なんですか。

団長:他の研究者たちの言っていることぜんぶすかされるっていうか、馬鹿にされて、それが(他の研究者たちは)気に食わないんだと思う。まあ『伯爵夫人』はちょっとやめて、同じ傾向ではあるけどももう少し控えた作品という意味で今回「片脚」を選んだ節はある。解説を川上弘美が書いてて、それなりに褒めててーー。

書記:絶賛してますね。

団長:まあ川上弘美は褒めるだろうな、多和田葉子も褒めるだろうな。

書記:(川上弘美は)どっかから褒めろって圧力がかかってるんじゃないかってくらいあからさまに褒めてますね。

医務:でも解説って褒めるんじゃないの? そういうものではない?

書記:どうでしょう、もちろん褒める人もいるだろうけど。

医務:一概にそうとは言えないんだ。

団長川上弘美が解説のおわりの方で言っているけど、現在エロスが書きにくい状況になってるというのは、ちょっと考えてもいいのかな。

書記:作家側の方での息づまりはありそうですよね、とくに男性が書くエロスには。川端康成の短編「片腕」を今回読み直したんですよ、田中さんが「片脚」を書く上で触発されたらしいということで。

医務:「片腕」ってどういう話なんですか?

団長:捨てる話っすか?

書記:わかりやすく捨てに行くって話ではなくて、ある孤独な男が少女から右腕を貸してもらって一晩添い寝するってだけの短い話なんですけども、最終的には自分の右腕とつけ替えてしまうんです。つけ替えた後で血が混じり合うっていうか、自分の血が少女の腕に入ってしまって、そのことで腕を返すときに何か支障が起こらないか、つけ替えた後でそういった考えが起こる。現実には起こらないことだけども、仮にそういったことが現実に起こったとしたらたぶん、つけ替える前にはそういう発想にはいたらないだろうしーー

団長:違いを強調してるっていうか、少女と自分とがぜんぜん違うものだと。

書記:違いによって性的に反応する……そう、そのへんになにか限界というか、境界がある。

団長:「片脚」ではかつて捨てられた自分と片脚の状況とが重なる。捨てられる片脚ってのが自分のことだって気づくところで物語がおわる。

書記:感動的でしたよ。

団長:そう、ただ凄いなって思ったのはその少し前、山に入っていくうちに片脚が、赤んぼうのように思えてきて、この赤んぼうを捨てなきゃというのと、温めなきゃというのとが矛盾を感じさせないこととしておこなわれる。最終的に片脚は捨てられないんだけども、捨てるものと捨てられるものとが同じなんだっていうところでピタッと一致する。川端の「片腕」はたぶんまったく違って、腕と自分とが違っているから快いんだと。

書記:「片脚」はだから、男の片脚でなくてもよかったかもしれない。

団長:まあ、片脚が最終的には赤んぼうになって、そこにかつての自分を投影して、おばさまの言ってた《あなたは捨てられない》というダブル・ミーニング、あなたは片脚を捨てることができない、というのと、あなたはもう誰にも捨てられない、という同義性に気づいて……うまくできた小説なんだけど、まあ、捨てちゃう人は捨てちゃうよね。

医務:わたし捨てちゃうと思う。

書記:え、なんでですか?

医務:気持ち悪いから。

書記:毛むくじゃらだからですか?

医務:そう。だってぜんぜん共感できないっていうか、もうその感触だけが想像されて、感情移入ができないっていうか、ごめんなさい洞察力とかなくて、感覚がなまなましく煽られて、それをこう、愛おしいとか、そういうふうに感じられるところまでいけなかった。

書記:そこまでなまなましく感じさせるっていう部分では成功してるんでしょうね。

団長:そこ大事なところで、だってありえないくらい気持ち悪いしーー

医務:看護師やってるからふだん人の体を見る機会が多くて、だからリアルなものとして想像しやすいっていうのはあったと思う。そうでなければフィクションとして想像できたかもしれない。

団長:そうやって思わせるのも小説としてはうまくいってて、わざとそう思わせるように書いてるし、だからなおさら最後のオチがうまくいきすぎてて、逆に違和感あるくらい。

医務:わたしこれ、最後どうなったのかよくわからなくてーー

書記:たしかに具体的にはどこにも着地はしてませんよね。

医務:こういう感覚って男性と女性とでやっぱり違うのかな。

団長:いや気持ち悪いと思う。読んでて、やっぱり気持ちのいい小説ではない。

医務:じゃあさ、康成の方はどうなの?

団長:「片腕」の方はまだね。おじさんと距離が設けられてるから。

書記:まあでもこっち(「片腕」)のおじさんのエロティシズムには、個人的には共感できないですね。少女の片腕のなにが快いのか……描写のなまなましさはわかるんですけども。

団長:やっぱりふつうに読んでたら、捨てるでしょっていう反応が健全だよ。

某居酒屋女性スタッフ:失礼しまーす。マグロのお造りお一つ……

書記:(きた!)

某居酒屋女性スタッフ:あとお済みのお皿やグラスありましたらおさげしまーす。

医務:ありがとう。

団長:岩波の新書で2010年代以降〈介護小説〉っていうのがいっぱいでてきたといわれてて、潜在的には前からあったんだけども、遡ると深沢七郎の「楢山節考」、生産性のなくなった老人は山に捨てるっていうので、ただあの話の中では捨てても葬式をあげてるのに戻ってきて、戻ってきたじいさんばあさんを家に入れないとかすごいなまなましい話があって、介護ってめちゃくちゃなまなましい、というのが、深沢七郎があげたテーマだと思うんですけど、それが2010年代以降、高齢者がいっぱいでてきて、法整備もされてきて、まあ、書きやすくなったのか、モブ・ノリオの『介護入門』って芥川賞を受賞した作品があって、無職の青年が薬やりながらおばあちゃんの介護をするっていう話でーー

医務:薬って?

団長大麻

書記:うまいなあ。

団長:最近のヤングケアラーの問題にも繋がっていく。自分の考えや思いをうまく言語化できるようになる前の若い子たちも自分の時間をぜんぶ奪われて介護しなきゃいけない、そこで捨てる決断に迫られるような状況というのがでてくるだろうけども、じゃあ捨てないのはなぜかというと、まあその理由はないんだけども、唯一残っている美徳のようなものが、この小説(「片脚」)のラストなんじゃないかな、捨てるものは捨てられる、というような強迫観念。姥捨の構造があって、最初は川に捨てに行ったらもの凄い抵抗されて引き返す、夫は生前山の仕事をしてて、それで山に捨てに行くときにはそんなに暴れない、せめて山に捨てるんだったら、夫が所有していた山がいいよねと考えてその山に行くんだけども、あとおばさまが、「私」が相談したときに「山に捨てる」と言われて、もうはっきり柳田國男が前提にあって、柳田は山の話を集めて、だいたい山にはおかしな人がいるというのがわかって、日本の原住民なんだろうけども、それが変化していって妖怪という形になっていく、そうした話を柳田は途中からぜんぶ抑圧してしまって、山は先祖がいるところだよという話にすり替えてしまう、「片脚」はそれともろに重なるところがあるんだよ。山に行けば、自分のことを見守ってくれる先祖がいて、自分のことを支えてくれる。山に行けば、間違いない。でも柳田が抑圧する前の山っていうのは、もっとぜんぜん親しみのない、よくわからない人たちがいる。川に捨てると海に流れて自分の技術がなくなるという恐怖があるから、片脚は暴れる、でも山に捨てに行かれるんだったらまあいいかみたいな、最後の方は「楢山節考」の状況と重なってて、雪の降る中倒れて、もう死ぬんじゃないかってときに片脚の皮膚と自分の皮膚を重ね合わせるというありえない幻想を用意して、そこにかつて捨てられた自分を重ねて、かなりの力技でラストに持っていく。そのへんはうまいなと思った。

医務:おばさまの脚はどうなったんだっけ。

団長:おばさまの脚は性的な対象としての脚、男性器が付いている、あれは完全に消費される脚で、おばさま自身どこに片付けたっけと言うくらいで、だから「あんたは捨てられないよ」っておばさまが言うのは、おばさまの持ってた脚と、「私」の(男性器の付いていない)脚とが違うから。

医務:そこまで深読みできなかった、描写がなまなましくて。

団長:健全ですよ。

編集後記
読書会経過は読書会で実際に話されたことの縮小版ながら、話の流れやまとまりを考慮したり、読みづらい部分を整えたりしながら再構成していく中で、恣意的な範囲ではありますけども、一つの読書会の記録として過不足のない体裁に仕上げているつもりではいます。今回は田中兆子さんの「片脚」という短編小説でしたが、毎回のごとく、ピクルス騎士団団長の読みの広さ、深さには唸らされました。同時に自分の読みの狭さ、浅さには我ながら呆れるほどで、どこかで「書ければいい」、「読むのは二の次」というような考えが自分の中にくすぶっていて、そうした部分で少なからず逃げ道を作っているような甘さが今回は痛烈に響いて、あとで首がもげるほど反省してしまいました。誰か私の首から上をレンタルしていただけるようなお方はいませんか。また首から下に関しましても、自力で出来ることはほとんどないといっても過言ではありませんけども、ご希望の方がおりましたらぜひ共にハイキングにでも参りましょう! 柳田國男ではありませんけども、私も幼少期に身近な大人たちが語る奇怪な言い伝えに胸躍らせた山の一つや二つ驚くほど鮮明に覚えておりますので、うまくいけばお連れしてさしあげることができるかと思います。
「片脚」は短い作品ながら、ジェンダーの問題であったり、介護とのつながりであったりと、多様な角度で切り取ることができる、潜在的に広い地平と社会性を有した小説であると言うことができそうです。

[書記]


次回読書会は8月を予定しています。
課題本は、今月刊行予定の村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』です。
推薦者は医務さんです。ご期待ください。

ピクルス騎士団・団長
(またの名を「サンボン」さん)の真実がここにあるかもしれない
https://ameblo.jp/hankakusendenena/
【実況】散らかし3姉妹vs掃除音痴パパの一年戦争

レイ・ブラッドベリ「華氏451度」読書会2022年12月

読書会概要
日時 2022年12月3日(土)19:00〜22:00
場所 東京都内 某居酒屋
参加者 団長 医務 書記
課題本 レイ・ブラッドベリ著 伊藤典夫
    『華氏451度』(ハヤカワ文庫)
課題本推薦者 書記

書誌情報
アメリカのデルレイ・ブックス(旧バランタイン・ブックス)から1953年10月に刊行(初版はオムニバス作品集)、その後、男性娯楽雑誌プレイボーイ1954年3月号から3回にわたって連載された。

レイ・ブラッドベリ
1920年イリノイ州生まれの小説家。1947年最初の短編集『黒いカーニバル』刊行。『華氏451度』の発表で幻想作家としての名声と評価を不動のものにした。2012年91歳で死去。

映画『華氏451』
フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーが映画化、日本では1967年に公開。

内容紹介
焚書」をテーマにしたディストピア小説。舞台は近未来。
読書と漫画(と一部の告白書←暴露本)以外の本の所持が禁じられ、テレビやラジオによる感覚的娯楽によって人々の意識が統制された世界。
本がもたらす情報は有害とされ、社会の秩序と安寧が損なわれることを防ぐため、本の違法所持が発覚した場合は「ファイアマン」(「焚書官」訳書の中では「昇火士」)と呼ばれる機関が出動して焼却、所有者は逮捕される。さらに密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成されている。
結果、表面上穏やかな社会が築かれる一方で、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前の出来事さえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっている。
本編の主人公ガイ・モンターグはファイアマンの一員で、当初の仕事ぶりはきわめて模範的であるが、隣家の少女クラリス・マクレラン、出頭を拒み自ら家に火をつけて死ぬ老女、元英語教師のフェイバーなどとの出会いを経るなかで、やがて社会への疑問を抑えきれなくなる。

読書会経過

⑴「大衆」について

居酒屋の女:失礼いたしま〜す。生ビールと、チル*&ちゅ%$れ♪でござりま〜す。

団長:はい。

書記:(チル?)

居酒屋の女:失礼いたしま〜す。

電子音:ピコ、ピコ。

書記:……映画、見ました?(ピコン)

団長:見ました、むかし。

医務:見たんだ、どうでした?

団長:オープニングがよくて。やっぱり原作とは違ってて

居酒屋の女:すみません、唐揚げです!

書記:はーい。

団長:あの老女が焼かれるシーンとか、映画の中では特に取り上げられてたけど。見ててかぶったのが、ゴダールの『アルファビル』。両方SFで、似た部分がある。

書記:『アルファビル』はコンピュータですよね、制御が利かなくなる話。

団長:そう。まあ、その話はあとで。じゃあ、お願いします。

書記:はい、では今日は概要の方はちょっと飛ばして、本の中からいくつかシーンを抜きだしてあとで感想や意見などつのります。

残念ながら、半世紀前に捨てた書物をまた拾えばいいという単純な話ではない。いいかね、昇火士などほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ。
 【フェーバー教授の言葉(本書146P)】

書記:この「大衆」について、現在社会のなかで何か思いあたる節があるかどうかお聞きしたいです。《大衆そのものが自発的に読むのをやめてしまった。》そうした傾向は現在の大衆にも言えるような気がします。

居酒屋の女:失礼いたしま〜す。マンゴーオレンジでございます。

医務:あ、はい。ありがとうございます。

団長:現在の人たちが本を読まないということですね。

書記:なぜ自発的に本を読むのをやめてしまったのか、この大衆は。

医務:スピードが早くなってる。たんに本を読む時間がないのと、あらすじがぜんぶわかる動画とかあるじゃない? だから本を読まなくても結論や結末がわかって、それで満足してしまう。

居酒屋の男:お待たせしました! シーザーサラダのお客様……

団長:すみません。

書記:本を読まずとも本の内容がわかる手段があるからあえて読書はしないということ。

医務:本の内容を理解、理解というのではないにせよ知ることができる。

団長:本の対立概念として、(本書では)「ラウンジ」という疑似的な家族がお喋りする壁が大衆文化の象徴として出てきてて、それを聞いていればいいんだという文化になってる。さっき医務さんが言ってたスピードが早くなってるという話と関わって、テレビ文化が念頭にあるのかな。衝突は起こらず楽しいという気分はあって、対話と反対のところに「大衆」は位置している。会話はするけども、誰と会話をするのかは気にしてないし、考えるというのもしないし、とにかく楽で楽しけりゃいいっていう。もう一つ(本書の中で)象徴的なのが「巻き貝」という耳にあてるよくわからないヘッドホンみたいな、他の雑音をシャットアウトするような装置が出てきてて、だから自分で聞きたいものだけ、楽なものだけ聞いてる、大衆もそういうものを求めている。昇火士というのも、そういう流れで出てきているという話ですね。

書記:選択肢が狭い。送られてくるものを受信するだけ。

団長:(本書では)大衆の代表はやっぱり「女性」なんですよね。

書記:奥さんとその友達。

団長:(「大衆」としての)男性はあまり出てこない。

書記:同僚くらいでしょうか。

団長フェミニストが怒る構図にはなってるんですよね、知識知恵、あるいは真理を受容するのは男性であって、真理から遠く離れたところでべちゃくちゃお喋りしてひたすら享楽するのが女性という構図が強くありますね。

医務クラリスはどういう存在なの?

団長クラリスは真理に近づいちゃったから物語から排除されちゃった、途中あっさりいなくなっちゃって、もう出てこなかったし、だから真理に近づく女性は必ず排除される、近づいていいのは男性だけっていう、そういう読み方ができちゃうかな。

⑵書物は重要かーーかつて本のなかにあったもの

書記:フェーバー教授はモンターグが求めるものを《本ではなく、かつて本のなかにあったもの》であると見抜きます。そしてモンターグの直観的な正しさを認めた上で彼の信念に必要な三つの事柄を教示します。

1.情報の本質と特性

こうした書物がなぜ重要なのか、おわかりかな? それは本質が秘められておるからだ。では、本質なることばはなにを意味するのか? わたしはそれぞれのものが持つ特性だと思っておる。
【フェーバー教授の言葉(139p)】

われわれは、花がたっぷりの雨と黒土によって育つのではなく、花が花を養分として生きようとする時代に生きておるのだよ。
【フェーバー教授の言葉(139p)】

2.余暇ーー「情報の本質と特性」を消化するための時間

本はちょっと待っていなさいといって閉じてしまえる。人は本にたいして神のようにふるまうことができる。しかし、テレビラウンジに一粒の種をまいて、その鉤爪にがっしりとつかまれてしまったら、身を引き裂いてそこから出ようとする者など、おるかね? テレビは人を望みどおりのかたちに育てあげてしまう! この世界とおなじくらい現実的な環境なのだよ。真実になり、真実として存在してしまう。本は分別をもって叩きのめすことができる。
【フェーバー教授の言葉(141p)】

3.最初の二つの相互作用から学んだことにもとづいて行動を起こすための正当な理由

これからどうすればいいんでしょう? 本はぼくらを助けてくれるんでしょうか?
【モンターグの言葉(142p)】

必要なものの三つめが手にはいりさえすれば。ひとつめは、最前いったとおり、情報の本質だ。二つめは、それを消化するための時間。そして三つめは、最初の二つの相互作用から学んだことにもとづいて行動を起こすための正当な理由だ。しかしながら、この老いぼれと、物事に幻滅した昇火士が、ゲームも終盤におよんだいま、なにほどのことができるのか、はなはだ疑問だな…
【フェーバー教授の言葉(142p)】

書記:書物が、情報の本質がなぜ重要なのかお聞きしたいです。ここ(本書)では明確には語られていませんが。

団長:月並みですが、「不在の問題」と関わってくると思う。「ここにない」ということが本の特権というか。結局なぜ本を燃やすかというと、ベイティー(モンターグの上司)もすごく博学で、本に浸っていた人間が最終的にたどりついたのが本を焼くという行為だった。要は本が、みずからを焼けと言っている。結局書物の文化の行きつく先が焚書なんですよね。物語自体がベイティーの語っていることを否定していないし、フェーバーはもう最初からベイティーは仲間かもしれないと言っているし、ファイアマンの論理は本が要請したものですよね、書物が重要だっていうのは、みずからを焼き尽くせという欲望と、後は結局、焼き尽くせないということ。

書記:話の筋を追っていくと、いま団長の発言とも関わるんですけど、本による本のための弁証法みたいなところがあって、まず「本は記録である」という考え方、で、その記録を「焚書」という形で否定する、最終的に「記録」は戦争によってか「焚書」によってかそのどちらでもいいんですがすべて消えてしまう、滅んでしまう、で、その先に「記憶」が現れる。最後の方で出てくるレジスタンスの人々は本という形じゃなくても本の中身をまた複製できるように頭のなかで覚えている。

団長:それは結局本を燃やすことと変わらない。

書記:そう、燃やすことは否定していない。燃やしてその先まで行っている。

団長:読んで覚えていればそれでいい、わりと単純な結末だったね。燃やすシーンというのが一番読んでいていきいきしてる。老女は自分が燃やされるのを待ってた、そのために生きてきたんだなと読めるような、老女との出会いによってモンターグもおかしくなったし、本を燃やす(記憶する)という自分がやってきたファイマンの仕事をもう一度やる堂々めぐりの構造があって、結局同じことをしてる。

書記:医務さんであればふだん仕事で看護記録つけてると思うんですけど、そうした記録って何のためにあるんでしょう。

医務:共有するためかしら、情報を。

書記:その共有するための機能を担うのはコンピューターですよね、紙ではなく。

医務iPhoneですね。みんなと話が似てるけど、なんで書物が重要なのかって、すごく単純だけど考える力とか、子供のころそうやって教育されたような気がする。考える力を身につけるとか、想像力とか、そういうものを。そうやって教わった気がする。

書記:それは、誰に教わりました?

医務:学校の先生かな。

書記:学校であれば、先生に限らずいろんなことに反抗したい時期にもあたると思うんですけど、そこだけは(本の力は)納得して、信じれてしまう不思議はありますね。

医務:同じ本でも受けとり方は違う、でもそれはお互いにそういう考え方もあるんだみたいな感じで、読書会もそうだけど、楽しい。

書記:余暇、情報を消化するための時間は持ててますか。

医務:考える時間はある。で、こういう読書会のようなことがあればさらに考えが深まる。でも考えるというより感じる、かな。感じなおす。

団長:夢中になっていると逆に考えてない。本だけじゃなくて生活ぜんぶ、楽しかったりとか夢中になっているとたいして考えてなくて、夢中になっているとどんどんそれを中心にしていくと考えなくなっていくというのはすごいある。

書記:たしかに、私も夢中で写真を撮っているときなんかはフォトグラフィー、写真術のことは考えないです。

医務:ちょっと落ちついたら考えるね。

書記:現場を離れてですね。で、三番目の「正当な理由」なんですけど、ちょっと難しいな。情報の本質とそれを消化する時間、それらの相互作用から学んだことにもとづいて行動を起こすための正当な理由について。

団長:まあでも、同じ話ですよね。情報の本質なんて夢中になること、夢中になることは燃やすこと。そこはみんな言わないようにしてて、一番言いそうになったのがベイティーだった。

⑶ベイティ隊長の講義

ハムレット』について世間で知られていることといえば、《古典を完全読破して時代に追いつこう》と謳った本にある一ページのダイジェストがせいぜいだ。わかるか? 保育園から大学へ、そしてまた保育園へ逆もどり。これが過去五世紀かそれ以上もつづいてる知性のパターンなんだ。
【ベイティー隊長の言葉(93p)】

要約、概要、短縮、抄録、省略だ。政治だって? 新聞記事は短い見出しの下に文章がたった二つ! しまいにはなにもかも空中分解だ! 出版社、中間業者、放送局の汲みとる力にきりきり舞いするうち、あらゆるよけいな込み入った考えは遠心分離機ではじきとばされてしまう!
【ベイティー隊長の言葉(93p)】

書記:「遠心分離機」っていう言葉が作中よく出てきますが、ベイティーだけじゃなくフェイバーも使用している箇所があって(P147)、これはいったい何を象徴していると思いますか?

団長:遠心分離機って、分子生物学に関係してますよね。科学の実験で使われる道具ですが、比喩でもよく使われてた時期があったと思います。

書記:この本が日本語訳に翻訳された時期でしょうか。

医務:遠心分離機は病院でも使われてます。病院の泌尿器科に勤めてたとき使ってて……ごめんなさい食事中に、尿をスピッツ(採尿容器)に入れてグーッと回して、それ思い出しちゃった。

書記:モノとして使われている場所が病院とか実験室とか類似性があって、面白いですね。

団長:なぜダイジェストがダメなのか……圧縮ですよね、ベイティーが批判しているのは、明示的に批判しているわけではないけど、本がなんで悪いかというと、対話によっていろんな立場の言葉が増殖してしまうからって言ってますよね、結局いろんな意見があると対立しちゃうから。だったらぜんぶ燃やして一つにして、そうした争いが生じないようにする、ダイジェストってそういうことですよね。圧縮して、この本はこう言っているんだと示す、中身を読んじゃうとこうも読めるああも読めるといろんな意見が出てきてしまう、なんだろう、バフチンのダイアローグが念頭にあったのかなとも思える。

書記:ベイティーは言ってますね。

むかし本を気に入った人びとは、数は少ないながら、ここ、そこ、どこにでもいた。みんなが違っていてもよかった。世の中は広々としていた。ところが、やがて世の中は、詮索する目、ぶつかりあう肘、ののしりあう口で込み合ってきた。人口は二倍、三倍、四倍に増えた。映画や、ラジオ、雑誌、本は、練り粉で作ったプディングみたいな大味なレベルにまで落ちた。わかるか?
【ベイティー隊長の言葉(92p)】

⑷その他・感想

団長:本を反逆の手段として印刷しようって、フェイバーが言ったのかな……え、反逆の手段が印刷かと、印刷すれば反逆になるのかな。たしかに時代を感じさせるというか、地下組織の抵抗の十八番じゃないですか、まあ自分たちの主張を印刷して配って、そういうのがまだ露骨に信じられてる、それはフェイバーだからそうなのか、モンターグだからなのか、わからないけど、だったらもうどんどん印刷していたらよさそうじゃないですか、地下組織に行ったらもう本が山積みされていたというような、そういう設定があってもよさそうな、でもないんですよね、最終的に行きつく先が本はいらなくて頭の中に入っていればいいっていう。それってでも本の否定だよなって。そのへんは違和感あって、やっぱり本はいらないんじゃんってところに行きつく。

医務:これはいい詩ですね、「ドーバー海岸」(マシュー・アーノルド作)。

団長:モンターグが読んでマダム(ミセス・フェルプス、妻ミルドレッドの友人)を泣かせた詩ですか。

医務:そう。

団長:詩は、わからなくて(笑)

医務:え?

団長:わからないんですよね、詩、読めないんだなあ俺、って、ほんとに(苦笑)。

医務:素敵な詩ですよ。

書記:結局、本の否定につながるということですけど、同時に、記憶力を持っている人しか活躍できない、エリート意識というか、その点で批判されるケースとしては、ありますよね。

団長:うん、そうなんですよ、悪しき知識人。

書記:この段階に留まっていたら、おそらく何も変わらないですね。

団長:最初の方で、奥さんのミルドレッドが大量に薬を飲んで、男が二人(救急オペレーター)きて、蛇が体の中から出てくるという、血液とか交換して、奥さんが次の日には中身がぜんぜん違った人になってる、外見は奥さんだけど中身はぜんぜん違う、物質として違ってる……蛇なんですよね、聖書をふまえているんですよ、リンゴを食べてダメになった、そのリンゴの木の下には蛇がいるという文脈、だからこれは人類のイメージですよね、聖書は後半の方で出てくるし、逃げた先で出会う人たちにも、聖書を読んで覚えていたらそれは評価される。それで、大衆と女性が重なるという部分にもつながる、中身は交換可能で、それでいいという。

書記:本を読まないとこうなるよ、という描かれ方。

団長:なぜそれじゃだめなの、というのはあまり示されてはいない。

書記:その一例としてのOD(オーバードーズ)、ミルドレッドの、いい悪いと一概には言えないけど。

団長:面白いと思ったのは、これ(物語内の)現時間が2022年以降なんですよね(※本書123pに「2022年」という年が節目の年として示される個所がある)、その時点ではもう消防車がなくてファイアマンが本を焼く、っていうね。1954年時点での近未来なんですよね、現在は。たしかに我々はもう本を持つよりスマホで読書をしてる、でもまあ、本は本なんだけども、うん。

書記トリュフォーの映画は最後までちゃんと見てないんですけど(※書記は現在、腰を据えて映画鑑賞する時間はほとんど持たず、パソコン作業などの傍ら画面の隅っこにアマゾンプライム等を立ちあげて「ながら見」をするのが主になっている)、電車の車内で人が指を使って自分の体のあちこちをしきりに触るシーンが最初の方にあって、それがいまスマホに没頭する人たちの姿に重なって見えたりして、妙に印象に残ってます。

電子音:ピコンッ!

医務:そういうのあるよね、昔の話だけど現在のことを予見してるふうに読めたり。

電子音:ピコ、ピコ……ピコ、ピコ、ピコピコピコ。

医務:私はこの(本書の)世界観が、なんだか中国みたいだな、と。みんな同じ考え、突出した考えだと排除されてしまうとか、それが中国の現在の社会のような感じがして。

書記共産主義

医務:そうそう。

団長アメリカって、やたら真理を求めるんだなって。こないだの『かもめのジョナサン』(リチャード・バック著、前回『イリュージョン』の会で話題に挙がった)もそうだったけど、やたら真理を求める。しかも大衆的な生活を否定する、ぜんぶがぜんぶそうではないけど。

書記:中空構造の日本人にとっては、ちょっと訝しいような。

団長:そう、理屈が前面に出てくる。

書記:中身に対する何か、コンプレックスじゃないけど、ありますね。

団長:うん、あと中枢が出てこない。打倒すべき政府とか、打倒すべき、はっきりとした権力者が、一人も出てこなくて、唯一ベイティーが出てきて、そのベイティーもじつは本当はすごく本が好きだったおっさんていうね。だから共産主義のイメージというか、党が出てくるわけでもないし、これがアメリカの共産主義のイメージなのか……要するにはっきりした権力者はいなくて、権力は警察的な動きをする犬(本書では「機械猟犬」)だったり、やっぱり犬が一番機動的で、ファイアマン以上に機動的で、ほとんどそれしか機能していない。ファイマンといってもモンターグとベイティーと同僚の二人、その四人しか出てきてなくて、他で活動している雰囲気もない。あと面白いと思ったのが、壁と話す生活様式、なんとなくまわりに家族がいるような雰囲気、そういうイメージって、長野まゆみという女性作家に『テレビジョン・シティ』(1993年)って作品があって、テレビの画面に囲まれた生活なんだけど、その外部にはどこまで行っても出れないという話なんだけど、そのへんのイメージともつながるし、こう、ぜんぶ視覚的に構築されていて、もうちょっと行くと『攻殻機動隊』の記憶までつながる、やっぱり話す壁に囲まれてるっていうイメージは、ここからかな。あとフェーバーが株で稼いで入手して、モンターグに渡そうとしたのが、拳銃じゃなくて、トランシーバーみたいな――

書記:通信機でしたね。

団長:おい通信機かよって。読んでいくと、ぱっと思いついたのが『銀河鉄道999』で、メーテルがいつも持ち歩いている旅行鞄にお父さんとつながる通信機みたいなものがあって、それでメーテルがお父さんとだけ話すようなシーンが作品の後半の方に出てくるんだけど、それが通信技術の初期のイメージで、本を中心にしたコミュニティのあり方を大事にすると言っておきながら電話より一歩進んだような通信技術、ほとんど携帯電話とかスマホに近いようなものを取りだしてきてものすごく違和感がありました。ありませんでした? そこで一気に近くなるような感覚。

書記:違和感というか、そこまで私は(本書から批判の矛先として揶揄されるような技術自体に対しては)悲観的にはなれないです。

団長:中世の魔女と知識のあり方とその系譜と、20世紀以降の通信技術と本との関係の系譜と、平行してここ(本書)にあるから、ちぐはぐな感じはするけど、面白いところではありますね。本は読んでいると、どこまで行っても一つの意見にまとまることはない。『パピエ・マシン』を書いたデリダは、コミュニケーションは終わらないということを言ってたわけで、印刷技術というか、本はつねに印刷されるわけだけども、コミュニケーションはそこでもおこなわれていて、永久に終わりはないと。

書記デリダはコミュニケーションに肯定的でしたか?

団長:両義的でしたよね。『火ここになき灰』という本はアウシュビッツを念頭に書かれたものでしたけど、「灰」というのが、かつてあったと実在を強く主張すると同時に、いまはないと、デリダの場合は不在を強調したかったんだろうけど、不在と実在が同時に「灰」を通してあらわれるというね、それが『華氏451度』の作品のテーマにもかぶって読めます。

書記デリダのその本(『火ここになき灰』)は文庫で読めますか? ちくまとかで。

団長:あれはちくまじゃなくて、いや、文庫にはなってないですね。白と黒の本で、細長くて、ぜんぜん厚くないですよ。100ページあるか、ないか――

居酒屋の女:失礼いたしま~す、湯葉チップスになりま~す。こちらお下げしてもよろしいですか?

書記:お願いします。

居酒屋の女:かしこまりました~。

医務:飲み物なにか頼みます?

団長:う~ん、ビールしか頼むものないな。

電子音:ピコ。

医務:いいですか、もう頼まなくて。

書記:コーヒーほしいです。ビールもう飽きちゃった。

医務:コーヒーは、ないです、ここ居酒屋。

電子音:ピコンッ!

団長:あ、間違えた。あれ、二つ頼んじゃったかな俺。

⑸現代の焚書

書記サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』はご存知ですか? 現実世界の「焚書」のような出来事に関わってるんですけど。

医務:『悪魔の詩』ねえ、買えないよ、一冊の値段が高くて。

団長悪魔の詩

医務ムハンマドを軽視したような内容だから、イスラム教の人々から批判されて。

書記:殺人事件が起きましたよね。

団長:へえ、知らない。

医務:最近だよね、作者が襲撃されたの。訳した教授がむかし殺されたでしょう。

書記:日本人ね。

団長:えー、殺されたの?

医務:そうそう、教えてた大学で。犯人は見つかってない。

[割愛]

団長:そういえば、ちょっと話はズレるけど、こないだ都立大の宮台真司が襲撃されたのが個人的にショックで。

医務:(宮台真司には)何か人から反感買うのようなことがあったんですか?

団長:そりゃもう。

書記:明確な動機が?

団長:だってあの人は戦略的に、というか自覚的に過激な発言をしてて、社会学者としては優秀で、メディアにもいっぱい出たし、オウム事件の際とか、90年代にオウムと女子高生に対して一番鋭く発言したのが宮台で、いまはYouTubeとかでやってるけど、宗教とかそのへんに関してはずばずば、挑発的な口調で言うからまあ、狙う人はいるだろうなと。

医務:こっちも犯人はまだ見つかってないね。

書記:なんで今なんだろう。

団長:そう、なんで今っていう、こないだの安倍元首相の襲撃もそうだけど、なぜ今か……そうか、でも今、そういう時期なんだろうな。変な形で出てくるんだな、二回続いてて、逆恨みっちゃ逆恨みなんだろうけど、微妙にズレてるし、そのズレ方が安倍と宮台の場合とで同じというか、的を外れてる。さっきの『悪魔の詩』の話と、どこまでつながるかはわからないけども。

医務:でも『華氏451度』は今というか、現在までを予見した内容でしたね……面白かった。

読書会総括・編集後記
閲覧して下さった方、誠にありがとうございました。閲覧して下さる方はもちろんですけども、当ブログを運営するにあたっては読書会参加者のご協力も大きく、毎回感謝しております。
今回課題本として『華氏451度』を推薦させていただいて、私自身、幼い頃は読書がとても苦手で、体を動かしている方が好きな子供時代を送ってきて、ある時期に切実な理由から活字の世界に足を踏み入れるようになって現在を迎えているわけですけども、言葉とは日々、毎時、毎分、毎秒、恐ろしく際どくて、デリケートなつきあい方を(選んでいるというよりは)強いられております。本書の中で、私が一番大事に感じるキャラクターは、主人公のガイ・モンターグやクラリス・マクレランなど魅力的な存在は多いですけども、個人的にはモンターグから「ミリー」と呼ばれる妻、ミルドレッドでした。ミルドレッドのようなキャラクターは、現実から移乗したときに物語の世界をあふれだすほど凡庸かもしれません。物語では、他に浦沢直樹の漫画『モンスター』に登場するエヴァ・ハイネマンというキャラクターを、ミルドレッドのそれに類似した、即(俗)物的と申せば甚だ安易にすぎるかもしれないイメージとして呼びこむことができます。エヴァ・ハイネマンは作中ではアルコール依存症ですが、正直、非常に魅力的な存在で、彼女をきちんと描ききったことが『モンスター』という漫画を偉大にしていると、私などは考えてしまいます、冗談ではなく。もし『華氏451度』に続きがあるとしたら、本の行方などよりもミルドレッドの生きざまに着目した物語であってほしいと願わずにはいられません。

[書記]

次回、読書会は来春の開催予定です。
課題本は田中兆子の短編小説集『私のことならほっといて』(新潮文庫)所収、「片脚」です。
推薦者は、団長です。
皆様、今年もありがとうございました。よい読書をお過ごし下さい。

リチャード・バック「イリュージョン」読書会2022年9月

読書会概要
日時 2022年9月10日(土)17:00〜19:00
場所 東京都内 某喫茶店
参加者 団長 医務 書記
感想文寄稿 画家
課題本 リチャード・バック著 村上龍
    『イリュージョン』(1977年9月初版)
課題本推薦者 医務

作品内容
イリノイの夏、遊覧飛行士リチャードは不思議な雰囲気を持った同業者ドン(ドナルド・シモダ)に出会う。ドンはかつて自動車修理工兼救世主としてアメリカの神の化身と呼ばれていた男だった。リチャードはドンの周囲で起こる奇妙な出来事に当惑しながらも、しだいに友人として、あるいは救世主の師としての彼を信頼するようになっていくがーー。

読書会経過

医務:『イリュージョン』は中学生の頃に親友から勧められて読んだ本です。自分は当時ブラスバンドにいたんですけど、吹奏楽コンクールの課題曲の名前がたまたま「イリュージョン」ということもあって。

書記:「イリュージョン」という曲は有名なんですか?

医務:課題曲は毎年変わって、「イリュージョン」はその年のコンクールのために作られた曲だからあまり一般的なものではないです。どこかの大学の吹奏楽部が弾いたものならたぶん、YouTubeで聴くことはできるけど。でもリチャード・バックの『イリュージョン』と関係性はなくて、ただ名前が同じだけ。
読んだ感想は、画家さんの感想文にも書かれているけど、サン=テグジュベリの『星の王子さま』に似てると思った、主人公が飛行機乗りであったりとか、物語の筋だてであったりとか。

書記:ジャンル分けすると何になるんでしょうね。

医務:どうなんだろう、ファンタジーなのかな。

書記:子供向け?

医務:『星の王子さま』もそうだけど、子ども向け、ではないよね、本当は。大人向けに作られた物語みたい、内容はちょっと児童文学っぽいところもあるけど。団長さんはどうでした?

団長アメリカ文学のこのあたりの本はこれまでぜんぜん読んでこなくて、今回『イリュージョン』読んで、ちょっとわからなかったなぁ、それで『かもめのジョナサン』読んで、ああなるほどとなって、ちょっと腑に落ちた。

書記:『イリュージョン』読んだ段階で、どんな疑問がありましたか?

団長:やっぱり救世主の話だから聖書のパロディというのはもちろんあって、それがアメリカ文学のどのへんに位置づけられるのか。『かもめのジョナサン』の文庫版の後書きで五木寛之が『イージーライダー』の話から始めてるんだよね、『イージーライダー』と、もう一本名前忘れたけど似たような映画を話の俎上にあげて、60年代と70年代のあいだの断絶を指摘して、『イージーライダー』でももう一本の映画でも最後に主人公が亡くなるんだけど、ヒッピー文化との関わりで読めるんじゃないか、と。『かもめのジョナサン』を読んで作者がどういう人かやっとわかって、読んでないけどたぶん『フェレットの冒険』とか他の作品でもこういう傾向かとか、『かもめのジョナサン』読んで『イリュージョン』を初めに読んだときの違和感がわかったんだけど……。

書記:どういう違和感でしょう。

団長:うん、その違和感を思いだすよ今(笑)

医務:ふふ。

団長:あったの(笑、それがわかってすごいすっきりしたことは覚えてて。

書記:そっか、五木寛之なんですね。

団長:そうそう、『かもめのジョナサン』の文庫版の後書きで五木寛之がぜんぶ書いてたんだよね、『イリュージョン』読んだときに俺が思ってた疑問点を。で、たしかにそう考えると『イリュージョン』にも当てはまって、やっぱりなんかあるよね、この作者は、と。そこの部分が見えてくると『イリュージョン』の文庫版の後書きで村上龍が言っている意味もわかってくる。村上龍は、リチャード・バックが日本にきたときに一緒に行動した話を書いてて、ものすごくやっぱり変わった人で。

医務村上龍も変わったイメージあるけど。彼が書いてる本も何冊か読んでて。

団長:まあでも、村上龍は大衆的というか、明快だよね。

医務:画家さんもなんか、そんな感じで感想書いてるよね。

書記:画家さんは飛行機とか飛ぶものに興味がある方なので、その点で何か引っかかりを持ったんじゃないでしょうか。

医務:作者が意図する目的が何なのかわからない、というようなことも画家さんは書いているよね。《ストンと腑に落ちるように伝わらない》、とも。だから、団長さんがいま話したこととも通じるような。

団長:そうねでも俺はストンと腑に落ちるところがあったんだよね。『イリュージョン』読んだだけだったらわからなかったけど。

医務:『かもめのジョナサン』読んでね。

団長:そう、で、読んだときにすぐに日本のある作家のことを思いだした。

医務:誰?

団長:ああこれだな、と、宮沢賢治だと。

医務宮沢賢治か、なんとなくそう言われると。同じカテゴリーだよね。

団長:物語の構造としては、救世主がいて、最終的に迫害されるんだけど、それって、そういうパターンは世界的にたくさんあるんだけども、なんで宮沢賢治かというと……あるんですよ、『かもめのジョナサン』読めば、別に読まなくても五木寛之の後書き読めば、すごいわかりやすく書かれてて、村上龍の後書きはね、なんかこう、この人解説は下手くそだな(笑)

書記:欲言うともっとこう、書誌的な情報も書いておいてくれるとありがたかったですけど(笑)

団長:まあ、『かもめのジョナサン』は訳しにくい小説だと思う。

医務:書記さんは好きなんじゃない、けっこう、海外の作品も読んでらっしゃるし。

書記リチャード・バックは今回初めて読みましたよ。

団長:気になったのは、宮崎駿ももう、おかしいくらい飛行機の詳細について詳しいし、やっぱり戦争の痕跡というのが露骨に出てくる作家でもあって、さっきの違和感というのは、じつは戦争だったんだよね、飛行機に乗ってる人たちが出てきて、技術で食ってくでしょう、たとえばイーストウッドの映画でもさ、『スペースカウボーイ』では農場で飛行機を乗りまわしてるおじさまたちが出てくるんだけど、ベトナム戦争を経験してる世代で、飛行機が出てくると戦争のにおいがともなってくるというのがあって、でも『イリュージョン』ではそうした戦争のにおいがない、ないというのがすごく気になって、なんだろうなと思った。そのへんが宮沢賢治に近いというのもあるんだけど、宮沢賢治は亡くなったのが1930年代だから間だけど、『イリュージョン』が発表されたのは1970年代でしょう、復興文化華やかなりし頃だよね、60年代の革命があって、世界的に闘争の時代に戦争のにおいがしないというのがまず気になって、執筆当時はきっとベトナム戦争の記憶もまだ濃い時期なのに、アメリカの二人の男が飛行機で気ままに旅してて、一人は異能を持った存在でしょう、それで最終的に彼が排除される話だけど、宮沢賢治の作品でいうと、『よだかの星』というのがあって、鳥の社会の中で嫌われているよだかという存在が星になるという話だけど、要は共同体の外に爪弾きにされて、最終的には英雄になる、ただ『イリュージョン』の場合は最後、ドンが殺されてしまうんだけど、その描写だけテイストを変えたなという感じがあって、それまでイリュージョンだイリュージョンだと言ってて、死をどうやって描くのかと思ってたら、そこはリアルに描いたんだよね。最後は身体性をワッと出して、そう、《まるで爆撃を受けたようだった。体の半分はグチャグチャに千切れた皮と布と肉に被われた、赤く湿った塊になっていた》、けっこうね、このへんは生々しく書いているなと、強いて言えばこのあたりが戦争なのか。

書記:『かもめのジョナサン』の方には生々しい、残酷な場面はないんですか?

団長:『かもめのジョナサン』の方が宮沢賢治の『よだかの星』の構造に似てて、最後は天上に行ってしまう、ジョナサンも行ってしまう、五木寛之が感じてた違和感ってのが、自分が元いた鳥の集団をジョナサンは低く見ている、自分がそこから爪弾きにされて、天上の世界に行って、そこにはある程度仲間がエリート集団みたいな感じでいるんだよね、でもぼくはあの人たちを救わなきゃいけないという話をして戻っていくんだよね、もってまわったサイクル、遠まわしに自分が元いた場所を否定している、だから最後までそこには戻りきれないんだよね、どうしても上へ上へと行ってしまう、そういう部分でも宮沢賢治的だし、それから付け加えると、性的な欲望がカットされている。『イリュージョン』ではリチャードがちょっとエッチな夢を見たりするんだけど、すんでのところで止められてしまう、そのへんが不思議な感じがしていたんだけど、フェミニズムとか精神分析に詳しい人ならそれなりの読み方ができるんだろうけども、宮沢賢治もやっぱり性的な要素は排除されていて、代わりに植物の種が散乱するイメージとか別な形で持ってくるんだけど、『かもめのジョナサン』もしつこいくらい上昇志向で、かなり露骨に出てるんだよね、でも『イリュージョン』はちょっと違った要素も見えたんだよ。

書記:『かもめのジョナサン』の登場人物はぜんぶ鳥ですか?

団長:そう、鳥。

書記:『イリュージョン』はその鳥を人に置き換えたイメージですかね、グロテスクなところもあまり出てこない?

団長:ただ『イリュージョン』は、最後ドンがしっかり死ぬというところが大きくて、リチャードはおそらくドンのようにはなれないし、ドンを撃ち殺した青年(ディック)も、「連れてってくれ」と言うけれど、やっぱり彼も、行けないんだよね。逃げだしちゃうし。

書記:ではディックは群衆から完全に逃げることはできない?

団長:え?

書記:(ディックを)群衆から逃げさせる、離れさせるためにドンがあえて撃たれたとしたら。

団長:そういう意味か。というか、ドンのようには結局、誰もなれない。だから見習いとしてリチャードを選ぶけど、彼もドンにはなれない。『かもめのジョナサン』も天上の世界に行って、似たようなエリートのかもめがいっぱいいて、で、そこでもやっぱり馴染めないんだよね、そこにいる長老のかもめがさらに上のものに認められないかぎり存在意義がなくなっちゃうんだよ、だからこの小説の構造はどんどん上に行くしかないような、でも行きついたところで下にいく、上下の動きしかないのは『よだかの星』の方法と一緒なんだよね。

書記:結局、ジョナサンは死ぬんですか。

団長:最後ね、もう教え子を作って、教え子のかもめが壁に激突してたしか死ぬんだよね、でも別の世界に転移する。そのへんの構造も『イリュージョン』の最後と一緒、ドンは死ぬんだけど……

書記:夢の世界で生き返る。

団長:うん。

医務:なるほどね。

団長:(喫茶店店長に)すみません!

(某喫茶店)店長:……

団長:すみませーん……

店長:あ、はっ!

団長ブレンド(お代わり)下さい。

 店長、テーブルにきて未開封のフレッシュを指しーー

店長:何も使わないですか?

団長:スプーンとか、うん、使わない。

店長:はい。

 店長、空のコーヒーカップを持ってキッチンに戻る。

団長:ドンが奇跡を起こした瞬間にとんでもないことが起こって、一回リチャードは逃げるんだよね。まともな反応だと思うんだけど、だから、裏切るならリチャードなのかなと思うんだけども、違うんだよな。リチャードがやっぱり君にはついていけないっていう展開だったらどうだろう……

書記:一回離れたときもドンをどこか心待ちにしていたね。

医務:たしかに。

団長:ディックを一緒に連れてけばいいじゃんて思う。『かもめのジョナサン』は連れていくんだよね。

書記:弟子として。

団長:弟子として。そういう連れ添いが『イリュージョン』にはないんだよね。

書記:ディックはあくまで群衆の一人として描きたかったのか。

団長:まあそこが圧倒的に違うよね、『かもめのジョナサン』と『イリュージョン』では。結局一人で、理解者いないんだよね。リチャードだって優秀な生徒と言われながら、最後までとんちんかんなことして、救世主にはならないわけでしょう。

医務:完璧にはね。

団長:うん。で、最後の締め方としてはドンがディックに撃たれて、それで、人間らしく死んで終わるっていうやり方もあるんだけど、リチャード・バックはそれができなくて、死を超越したいんだよね。かといって、超越した救世主と一緒に行く人間を描くこともできなかった。ディックを連れていって、リチャードだけ取り残される悲しさを描いて終わりでもよかったけど、それもしないし、変な作家だな。

書記:ディックはドンを尊敬しているじゃないですか、その尊敬がドンにとっては鬱陶しかったんじゃないかな。

団長:うん、ディックは狂信者みたいな要素はあったよね。

書記:リチャードは尊敬はしてなくて、そこがドンにとっては気安かったんじゃないかな。ディックはやっぱり群衆の一人としてあって、そうすると群衆は、ユダ(裏切り)の象徴としての群衆だったんじゃないかな、裏切り者がいるとしたらこの物語では(ドンとリチャードを除く)全員にその資格がある。ディックはただ、その中の一人でしかない。

団長:そうすると、リチャードはどういう位置づけなんだろう。

書記:リチャードこそ救世主なんじゃないかと。入門書の最後のページにあるように現実はイリュージョン、すべて反転できて、リチャードがドンを「救世主」として創造した、とも読めます。

団長:うん、ドンの方が救われてるもんね。

医務:なるほどね。

書記:救世主を創造(外部化)したのは、リチャードは結局、自分のことをよりよく知るためだったんじゃないか、哲学書的にいえば。

団長:そうやって読むと、武田泰淳の「わが子キリスト」という話に近づく。反転するんだよね、キリストと民衆の関係が。民衆というか、キリストの実の親がでてきて、ローマの兵士なんだけど、最終的には実の親がキリストになっていく。

医務:まあ、『イリュージョン』のような本は、これっていう読み方はないから、いろんな解釈ができておもしろいよね。

感想文① 「飛行機へのあこがれ」
寄稿者:画家
ピクルス団での次回テーマの著作が、リチャード・バックのイリュージョンである事を知りましたので、好きな事を書かせてもらいました。
図書館で2冊(「イリュージョン」と「かもめのジョナサン」)を借りてみました。かもめのジョナサンは耳に聞き覚えのあるタイトルですが、読んだことはありません。
作者のリチャード・バックという作家が、飛行家であることをここで知りました。私の中では飛行機についての憧れが、さまざまな著作・作家を関連づけてくれます。サン=テグジュペリもその一人です。書記さんとの小旅行の帰途に寄った東北道でのPAで、アメリカのP38という飛行機の写真の様なものがありましたね。この機体に乗って偵察に出た事で最後を迎えたと言われています。なんでも、操縦が難しく彼の年齢・経験では第一線での参戦は無理で、それでも現場ー戦場へ身を投じる熱意で登乗して偵察飛行に向かった事が、最後と言われています。
他にも興味のある飛行家がいます。リンドバーグなどはあまりにも有名な飛行家でしょうが、著作などは読んでません、むしろ同じアメリカの女流飛行家のアメリア・イアハートが好きです。向上心や挑戦して止まない勇気などもですが、単純ですが、どこかボーイッシュな容姿が気に入っています。知的でチャーミングな女性と言う表現で往時から人気があった、とか。映画にもなっていて彼女の足跡をテーマにした映画DVDも買い求めました。飛行機ープロペラ機を見ると何か……どこか心動かされるものがあります。彼女は1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦して、同年7月上旬に、南太平洋において行方不明となりました。その後アメリカ海軍と大日本帝国かいぐんにより大規模な捜索が行われても、機体の残骸や遺体が発見されなかったことから、イアハートの失踪が「ミステリー」として取り上げられることになったそうです。私は、飛行機と言ってもプロペラ機に限った時代のエンジン音などにそそられます。
他にもジブリの「風立ちぬ」、これはゼロ戦の設計者の堀越二郎と作家の堀辰雄を題材にしたようなアニメですが、気に入った作品です。
【2022/05/25】

感想文② 「イリュージョンについて」
寄稿者:画家
この作品を読んだ感想は、哲学的な作品だと思った事です。何かを考えさせる、と言うより、何かを伝え感じさせる事が作者の意図する目的なのでしょうが、それが何なのか分からない(ストンと腑に落ちるように伝わらないーーこれは私の想像力の乏しさ)、それで、つまり哲学的という都合のいい表現になってくるのだと思います。原書でも同様なのでしょうが、太字のアフォリズム風の言葉に続いて展開される語り・物語は、それこそがイリュウジョンというタイトルとおり、日々出会う出来事や世界が錯覚・幻覚なのではないか、総てがそうである事に囲まれて、気が付く事無く意識する事無く、人は生きており、日々の世界に出会っている、という事なのでしょうか……。
話は逸れるかもしれません。作中たびたび登場する「広い牧草地・ほし草畑」について、あまりにも広大で茫漠な、そうした空間について、私の心に何かを思い起こさせます。
地平線まで果てしもなく続くのではないかと思わせる、トウモロコシ畑などと同様に(映画などで見たものですが)どこか特定できない、降り立った地は夢の続きの地で、そこに迷い込んだ様な印象を抱かせるものです。
日本では体験することが出来ない、なじまない光景でしょうが、青々とした、視線が終点を理解できる箱庭の様な日本の風土の田んぼの中は、広大さのイメージとはほど遠いものです。
きっと、舞い降りた地が、ただただ果てしなく続く広大な空間の中で、自分の存在に不安になり、今の自分とは何者? どこかに居た自分は今どこに居てどこへ行こうとしているのか……そんな不安を誘う命題が頭をもたげるのではないかと思うのです。エンジン音とプロペラに紛れて広大な畑に舞い降りるだけで、自分を取り囲む世界が、錯覚や幻覚の世界に変異する、そんな錯覚に陥るのではないか? そしてそれは、自分が承認を与えたマジックの世界の中で、自分が主人公になる事で、一種、日常からの解放感を味わう事になるのではないか、そんな事を考えてしまいます。
【2022/07/28】

読書会総括
割愛

編集後記
後記に代えて、今回は引用で締めくくることをお許し下さい。
《モノには視界から消えることでそれ自体が変化する性質がある。この意味で、モノは私たちを欺いて、幻想(イリュージョン)を作り出す。だが、まさにこの意味で、モノはモノ自体に忠実なのだから、私たちはーーモノの緻密な細部や正確な外観を通じて、モノの外観とその連鎖がもたらす官能的な幻想を通じてーーモノに対して忠実になる必要がある。なぜなら、幻想は現実と対立しないのだから。幻想とは現実の消滅の最初の記号を包み込む、もっと微妙なもうひとつの現実のことなのである。》【ジャン・ボードリヤール

次回、冬の読書会はレイ・ブラッドベリ著『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF)を予定しております。奇しくもリチャード・バックと同郷の作家になりました。推薦者は私、書記です。こうご期待下さい。

呉明益「自転車泥棒」読書会2022年4月 

読書会概要
日時
 2022年4月16日(土)17時30分〜19時50分
場所 東京都内 某喫茶店
参加者 団長 書記
課題本 呉 明益 著『自転車泥棒 推薦者:団長

書誌情報
原著は2015年6月台湾の麥田出版から刊行、邦訳は2018年11月に文藝春秋から刊行されました。明益めいえきの著書としては2015年の『歩道橋の魔術師』(白水社)に次ぐ2冊目の邦訳です。

天野健太郎 訳
『歩道橋の魔術師』に続き、本書の訳出も手がけた天野健太郎さんは、呉さんと同じ1971年生まれ。観光分野における人気とは対照的に、従来の日本ではほとんど市場がなかった台湾文学を2010年代より広く紹介、年齢も若く、新しい時代の開拓者としてこれからさらなる活躍が期待されましたが、本書が刊行されて数日後に惜しくも逝去されました。

内容紹介
1992年、ぼくら家族の生活の拠り所だった中華商場が解体された翌日、父が失踪した。1台の自転車とともに。
主人公の「ぼく」は、小説家兼ヴィンテージ自転車のコレクターです。父とともに消えた自転車の行方を追い、すでに20年以上が経過しています。この物語はすべて、「ぼく」がコレクター仲間を介して得た人脈の果てに、消えた父の自転車にたどりつくまでのプロセスと動向に纏わります。
家族の歴史に台湾の自転車史が伴奏し、台湾の自転車史が家族の歴史を伴奏する。台湾原住民族のカメラマンや蝶の工芸家を母に持つ女性、第2次大戦下にマレー半島で展開された自転車部隊、ミャンマーで日本軍に接収され中国へ、そして中国から台湾へと渡り台北の動物園で生涯を終えたゾウなど、いくつものエピソードや人物、動物たちが樹木の枝葉のように結びつき、やがてぼくらを幹のてっぺんにある「自転車」へと導いていく。

台北

読書会報告

1.フェティッシュ

団長:しんどい小説だった。『眠りの航路』も読んだけどやっぱり……

書記:そちらは未読ですけど、日本が舞台の話?

団長:『自動車泥棒』では消息を絶ってるお父さんの話で、戦中、日本で少年工として働いてる。

書記:レビューを見ると、登場人物として三島由紀夫が出てくるとか。

団長:もろ出てくる。もろ出てきて、やっぱり三島由紀夫を意識してるんだな。三島由紀夫のマニアには外せない。

書記:『眠りの航路』ではどうかわかりませんけど、『自動車泥棒』はまず情報量が多いというか、どれも自転車に代わってこの小説の主題になりえるようなエピソードが連なり絡みあいしながら一つの物語になっていく。小説として成功しているかどうかは別に。

団長:たぶん著者も、そのへんは全然まとめようとして書いていないんじゃないか。この『眠りの航路』って、『自転車泥棒』にも言及はあったけど、時系列とか微妙にずれてるし、合わせようとしていないし、あきらかに『自転車泥棒』の空白を『眠りの航路』のほうで充満させている――

店員:お待たせしましたぁ。アメリカンのお客さま――

団長:はい。

店員:失礼します(団長の右斜め前にアメリカン・コーヒーを置く)。失礼します(書記の左斜め前にブレンド・コーヒーを置く)。ごゆっくりどうぞぉ。

書記:ありがとう。
   眠りの航路も多視点ですか?

団長:複雑ですね。でも視点の交じりあいで言えば『自転車泥棒』のほうがすごい。

書記:フォーカスの動きが大きいし、激しいですね。後記の「哀悼さえ許されぬ時代を」に書かれてありますけど、この小説に関わりある歴史として、第二次世界大戦史、台湾史、台湾の自転車史、動物園史、チョウの工芸史まで挙げられてます。

団長:『自転車泥棒』ではフェティッシュなものの捉え方が新しいというか、『眠りの航路』にはあまりなくて、コレクターたちの自転車へのこだわり、レストアとか、フェティッシュな感性を軸にしてさまざまな記憶を立ちあげていく。自転車を基点にかつての父の記憶を復元しようとするんだけど、完全にはうまくいかなくて、でもちょっとずつ詰めあわせていって、全体のまとまりに欠ける部分は狙われていないけども、そうした記憶の構築の仕方は『自転車泥棒』のすごくうまくいっているところかな。

2.自転車泥棒

団長自転車泥棒というタイトルね……ヴィットリオ・デ・シーカの映画からとられてるそうだけど。

書記:戦後すぐのイタリアではやった「ネオリアリズモ」と呼ばれる作品の一つですね。

団長:自転車を探しまわる場面は、たしかにそのまま。

書記ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』は見てますか?

団長:前に見てる。
   駅前のTSUTAYAがなくなっちゃったせいで他の映画は最近なかなか。

書記:DVD借りて見る習慣がなくなりましたね。

団長:そう、店行ってぶらぶらできなくなっちゃった。

書記レンタルビデオ店でぶらぶらするの、いい時間だったんですけどね。

団長:いい時間だった、ほんとに。

3.『自転車泥棒』の「読者」

書記:『自転車泥棒』はとにかくいろんな切り口を持つ作品で、結局何が言いたいのか的を絞ってね、受け取ろうとするとすごく難しいんですけど、ラストに読者へのメッセージともとれる文章があって、ちょっと読んでみます。

――てっきり、この物語を旅するサイクリストは自分ひとりだと思っていた。でも読者のみなさんがこの小説を開いて、ここまで読み進めてくれたおかげで、無限にある道を互いに気づかずに走っているサイクリストがほかにもたくさんいて、見えない力によって、神秘的で巨大な歴史の流れに引き寄せられ、この旅路をともに走っていることを知った。
自転車泥棒』(文春文庫)457p

――自転車を探すうち、意外な時間の流れに巻き込まれてしまう物語を通して、読者のみなさんが本のなかの人物と心をふれあわせ、ペダルを踏むリズムや汗の臭い、乱れる呼吸、涙を流す(あるいは流さない)ほどの悲しみを、互いに感じとってほしい。
自転車泥棒』(文春文庫)457-458p

4.輻輳する世界Ⅰ

書記:登場人物ではありませんけど、作中、何人もの実在する人物の名前が登場しています。たとえば(文春文庫)84ページに、アッバス・キアロスタミの名前が見られます。さらっとした書かれ方で、内容には直接関わってきません。キアロスタミは個人的に思い入れのある映画監督の一人なので印象に残りましたけど。

団長:この『自転車泥棒』も映画化してほしいよな、それこそキアロスタミのような監督に。『眠りの航路』は父の記憶と私の意識が交互に書かれてて、村上春樹の「鼠」と「僕」との関係に代表されるような二つの世界が重なっていくカチッとした構造があって、それでも脱線するんだけど、『自転車泥棒」のほうがすごい角度で、いろんな事がわっと入ってきて……

書記:悪い言い方すると、散乱している。

団長:散乱してる。だから映画作りならそのへんのいい加減さが許されるというか、何やってもいい作品になりそう、逆に難しいかもしれないけど、映画はあきらかに意識してますね。

5.「英霊」の表象

書記:身近に台湾嫌いな人いないですよ、観光地としての台湾。定期的に行きたいという方が多いです。

団長:学生時代に会った留学生で、山東省とか四川とか大陸からきた学生と、台湾からきた学生とで全然違くて、圧倒的に感覚が近いんですよ、台湾のほうが。沖縄のひめゆりの塔に台湾の学生が行って、沖縄の悲劇を知ると、「ああ、うちらもなぁ……」とか、そういう感覚になったりしたとか、台湾の歴史ね……

書記:日本と台湾との歴史的な関わりもやっぱり無視できないですね。

団長:台湾の作家がこうやって三島由紀夫を引用して三島由紀夫のイメージを斬新な、思いもよらない形で書いているところは、けっこう……『眠りの航路』で《平岡君》という形で出てくるんだけど、『眠りの航路』のほうでは日本文学で語り継がれてる三島由紀夫のイメージに近くて、ちょろっと三島の神話を崩す語りもされてるんだけど、でもそこはやっぱり『自転車泥棒』で、登場人物のアッバスとラオゾウとの話、ラオゾウの秘密に触れるくだりで、学校の地下に潜りにいくシーンがあるじゃないですか、潜った先で魚の群れがわっときたかと思ったら、それが人間みたいな魚人、よく見ると手がなかったりとか足がなかったりとか、そのシーンも完全に種明かししないで結局は終わって、アッバスが前にやっていた店が《鏡子の家》という三島の話がされた後に、こうしたシーンが展開されていって、この作品の中で三島の「英霊」の表象がすごく変な形でされる。それはやっぱり台湾の作家だからこそできるんじゃないか。この魚人といういわば水生動物と、後半出てくるチンパンジーやゾウは森の生物だけど、「英霊」が動物の身体を介して語られるのは今までなかった。そこが圧倒的に新しい。三島は戦後『英霊の聲』を書いてるじゃないですか、それとはまた別の、三島的じゃない形で「英霊の聲」を書いているんですよ。

6.村上春樹

団長:中国、台湾から日本文学を研究しにくる学生って、だいたい村上春樹で論文を書くんですよ。むこうに村上春樹みたいな作家っているの? って訊くと、まあ、何人か名前が挙がってきて……ぜんぜん知らないんだけど、でもやっぱり90年代後半から小説家としてデビューしてる人で、村上春樹を意識していない人はいないんだろうけども、『自転車泥棒』にも村上春樹を感じるんだよな。

書記:何かに先駆けて失われてしまっているもの、に対する感受性に共通点があるかもしれませんね。私は単純に、ゾウの話を「応答」として読んじゃうんですけど、何に対する応えかというと、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭ですね、

例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。

村上春樹風の歌を聴け』(講談社文庫)より

これも作中の語りなんですけど、作中で著者の「書くこと」に対する想いだったり、動機の表明がされる部分にも共通点は見られますね。

7.輻輳する世界Ⅱ

団長:そうなんだよな、村上春樹の名前を一言もださずに喚起させる。持ってくるのは映画監督の名前だったり、三島由紀夫は思いきり出しているけど……

書記:『自転車泥棒』の作中言及されていない人で、なおかつ実在する人物で、私のなかに盛大に喚起された人物がいます。ダイアン・アーバスという写真家です。『自転車泥棒』の登場人物のアッバスはカメラマンでした。アッバスという名前は別称ですが、名前や職業とはもっと別のつながりがあるように読めます。

団長ダイアン・アーバスという人は、戦場カメラマンですか?

書記アッバスのような戦場カメラマンではありません。独特のポートレートを撮っていたアメリカの女性で、ファッション雑誌が主戦場でした。何年か前にスーザン・ソンタグの『写真論』を読んだときにはじめてこういう写真家がいたことを私は知りましたけど、『写真論』では一つの章のほぼ全域がダイアン・アーバス論になっています。彼女の写真を特徴づけているのは後半生の主要な被写体だった「フリークス」と呼ばれる存在です。「フリークス」は肉体的、精神的に他者と著しく異なる者のことですが、アーバスは彼らとの撮影、一種独特な、危険な共同作業によってしだいに心を病み、最後はニューヨークの自宅のバスタブで手首を切って自殺したということです。『自転車泥棒』本文184ページでアッバスが主人公に対して語る「詩と写真の違い」のなかで、彼は言います。

カメラマンは撮影現場へ足を運ばねばならない。だから、多かれ少なかれその場所により、自分を変えられてしまう。
自転車泥棒』(文春文庫)184p

またアッバスは「鏡子の家」という喫茶店をはじめた理由として、

芸術とは最後は総じて利己的なものだ。それで他人の考えは変えられたかどうかはわからないが、少なくとも自分が変えられたかどうかは、自分がいちばんよく知っている。チェチェンに行ったあと、自分にこれ以上多くのものを見せるわけにはいかないと感じた。だからしばらく休んで、『鏡子の家』を始めることに決めた。

自転車泥棒』(文春文庫)185p

と話します。
こうしたところにつながりが見いだせるように思います。つまり……

団長アッバスの撮ってた写真というのは、

一部、不快感を呼び起こすイメージもあったはずだ。
自転車泥棒』(文春文庫)105p

というふうに紹介されてたから、どんな写真なのかなと思ったけど……わりとおぞましい写真なのかな……。

書記:ちなみにソンタグは『写真論』の中で戦争写真家についてちょっと言及しています。

戦争写真家は彼らが記録する死の活動に参加しないわけにはいかない。

スーザン・ソンタグ『写真論』より

8.時間

団長:あと、同じ場所をずっと撮りつづける。純粋に時間を撮ろうとしている。『自転車泥棒』は時間に対する意識というのが強くて、自転車であれば、復元は無理だと。復元したい衝動は強いけど、あきらめも片方にあって、復元していく過程で、時間の本質が見えてくる、再現しようとすればするほど別の側面が見えてくる、ほとんど捏造なのか、想像なのかわからない。最後に感動的な自転車の場面があるけど、母親の病室に、ぼくが自転車を病院の裏口から担いでいって、病室に兄貴がいて、兄貴は疲れて寝ていて、スタンドあげて漕いで、漕いでるところを認知症の母親が見て、父親がいる、と言う。それはもちろん明らかに幻ではあるんだけど、単純な再現ではないというところを、最後にバシッと持ってきてる。簡単にいえば和解がテーマで、家族的なロマンスにぎりぎり収めてる。それはアッバスも一緒で、あともう一つはアフンていう――

書記:蝶を使った工芸家の――

団長:そうそう。娘のサビナが主人公に小説を送ってくるわけですね、その小説も父と娘の話で、秘密を抱えている父というわけでもないでしょうけど、自転車に触れるということが父に触れるということなのかな、その路線はがっちりあって、しっかりしているから、7つの「ノート」で自転車の知識がわっとあってもうるさくならないというか、父と子どもの物語と密接に結びあう、あまりにぐちゃぐちゃしているから見えにくいんだけど、よく読むとね。母親がはじめて小さいときに何人かの子どもと、案山子の役割をしに田んぼに行って、その田んぼのなかに隠れて案山子を揺らして雀を追い払っているうちに寝ちゃって、気づいたら空襲になってて、それが最初の方のシーンで、はじめに読んだとき語りの視点がどこなのかさっぱりわからない、めまいがしちゃって、そう、

あの朝の情景を、ぼくは描かなければならない。
自転車泥棒』(文春文庫)11p

まず《あの朝》はじまって、すごい遠いところから何かわっと語って、どうやら漁村らしい、で、子どもがいて、一気に空襲があって、他の子どもたちはほとんど死んでいて、そばにあった自転車を乗ったことないはずなのに、なぜか乗って、何か霊感みたいなのが働いているのか、ぐちゃぐちゃだけれど、自転車と家族の物語が最後まで書かれていて、銀輪部隊で自転車をアッバスのお父さん、バスアが隠したのかな、隠された自転車が数年経って、根っこから木の成長と一緒にこう、生えてくる、それだけ切り取ると荒唐無稽の話になるけど、そうはならないのはちゃんと自転車と家族の物語ががっちりあって、そのへんは『自転車泥棒』のうまいところで。主人公のお父さんがムー隊長に渡した自転車が、最後に主人公の手もとに戻ってくる。銀輪部隊なんて聞いたことないし、日本の戦後に言及している人とか、戦後文学で銀輪部隊の存在に触れている人もいない。

9.鐵の馬

団長:銀輪部隊なんて聞いたことないし、日本の戦後に言及している人とか、戦後文学で銀輪部隊の存在に触れている人もいない。

書記:そういう存在がいたことは?

団長:いや、はじめて知りましたね。読んでて思ったのは、インパール作戦とかで軍馬は全員死ぬんですよ、食べられたりとかして、でもそうした記録はないんです、あの馬たちって全員名前が付けられてて、兵士と同じような身分で行ってて、兵士だったら靖国に英霊としてまつられることはあるけど、馬はそんなことなくて、記録がないんですよ、どの馬がどこで死んだかとか、それと同じで、自転車も、「鐵馬」じゃないですか、中国読みなのか台湾読みなのか、そのへんの関連も面白くて。馬には触れてないけど、自転車の記録を探るのはもっと難しいだろうし、銀輪部隊なんてはじめて知ったし、それをここまでしつこく――

書記:名前のある馬さえ消息がわからないのに、名前のない自転車の消息を探るって――

団長:昭和10年代にそうした小説は生産されてて、ただその馬たちが実際にどうしたのか、確かなことはわかってなくて、誰も関心ないのか。記憶の風化はもう何十年も前から言われてるけれど、戦争を語るのに小説としてこういうやり方もあるんだなと、うん。ただそうなんだよなぁ、やっぱり写真論から入ってく、明らかにこう、何か。

書記:まずとっかかりがなくて。私、自転車には興味ないし、動物もなぁってところで、写真からならまあ、何かたぐっていけそうな――

団長:写真は絶対ありますよ、キアロスタミもあると思うんだよなぁ……。

10.境界(Last)

書記:あと今回、(団長さんも面識のある)画家さんをお誘いしてたんですが、残念ながら仕事の関係で不参加になってしまったんですけど、『自転車泥棒』は読んでいただけたみたいで、メールでコメントを送ってくれました。

団長画家さんを誘うってのが面白い……

書記:ぜひ参加してほしかった理由がありまして、画家さんは画家ではあるんですけど、一方で昆虫採集を趣味として長年やってきてる方なので、『自転車泥棒』のエピソードの一つに蝶の貼り絵の話があるじゃないですか、ほんと私単純な発想しかしないけども、何か面白い話が聞けるんじゃないかと思って……ただ、いただいたコメントのなかに蝶の貼り絵に関することは一切なくてですね、逆に私びっくりしちゃったんですけども、画家さんらしいといえばらしいんですけども……

団長画家さんは若いころ三島や太宰を読まれてるんですね……こてこての文学青年だ。

書記:ただ一緒にいても文学談義にならないんですよね、あまり話さないんですよ、芸術家だからなのか。まず体験というか、感覚の人なんですよね。蝶に関してはですね、「見に行きましょう」って逆に誘ってくれましたよ。アサギマダラをですね、こんど見に行きましょうって。

団長:ほう、画家さん標本を作ってらっしゃる。うちの親父も蝶やるんですよ。卵とってきたりね、あんまりやっちゃいけないんだろうけど。大学の先生から「この蝶が出現したら教えて」とか依頼受けちゃったりしてね。うちの親父は研究者じゃないんだけども、蝶を集める仲間みたいな感じで。

書記:コレクターじゃないですか。

団長:コレクターです。

書記:すごい。でもその感覚ももう一つわからない……うーん、もう少し。ただ画家さんは標本をしているけれど、標本というモノに執着してるようには思えない。私は見せてもらったことがありますけど、彼の標本箱は個展会場にない場合、全てひきだしの奥にしまい込まれています。奥さんに処分してと言われればおとなしく処分します……なんなんだろ……やっぱり採集して標本を制作するまでのあいだのプロセスを楽しんでいるんでしょうか。だから……危険な水域に踏み込んでしまうのは、こういう画家さんのような人なんだと思いますよ。画家さんとか、ダイアン・アーバスとかね。私は何をするのでもその先にある成果の見通しがまずあって、本とか写真とか、その成果の見通しを支えにして出かけます。撮影にしろ、取材にしろ。だから私は画家さんの昆虫採集と絵画制作とのあいだには何か強いつながりがあるように思えるわけです。でも本人に訊ねると無いというか、そうした意識が希薄なんですね。深いところではつながっているかもしれないけども、彼の考えではあくまで別個のものなんです。

書記画家の絵画作品がプリントされたポストカードを団長に見せる。

画家さんの絵画作品

団長:こういう作品の雰囲気から入ると、アフンの蝶の話はイメージわくな、たしかに。異色じゃないですか、あの挿話は。病院の若い先生と関係を持つところとか、蝶の雄雌がわかるところとか、昆虫的な感覚になっていってるんですね、だから、危ないじゃないですか、後半の森のなかの話とか、語りが木にわっと入っていって、この危なさというのは、たしかに写真論の危なさに近い。

書記:戻ってこれない。

団長:戻ってこれない感じですね。それでも生還してくるんだけど。完全に向こうにいっちゃえば戻ってこれないし、戻ってこれるラインでやっている。

書記:そのラインでいうと、自分のことで恐縮ですけどやっぱり私も戻ってこれるんです。成果として何かを残すという想いが支えになります。

団長:そこですね。

書記:そこです、画家さんダイアン・アーバスは違うんじゃないかと。成果というか、支えそのものに対する何か意識が希薄で、そのあいだの感覚を大事にしている、いつか大事にしすぎてしまわないともかぎらない……その危険。

団長:圧倒的に危ないです。

書記:それが芸術家の体質といわれれば、それまでですけど。境界は、森だけじゃなくいろんなところにありますからね。画家さんといる時間には、そうした境界が少し見えやすくなります。

団長:やっぱり絵画とか、写真とか、読むというか、あまり考えてなかったから、あるんだろうなと思ってたくらいで、さっき画家さんの絵を見て、こういうイメージだよな、と。あの画家さんの絵だと、やっぱりこう、死のにおいが満ちみちてて、子どもらの表情もあどけなさはなくて、ひたすら閉ざされた空間の荒廃した地面に、うつろな顔をした子たちがいて、幾何学的な世界だけど、絵画の受容というか、圧倒的にその世界に引き込む。言葉をそこまで必要としない。読もうとすれば読めるんだけども、テーマも見いだせるんだけども、やっぱりさっき言った危なさで、あっちがすぐそこにあるなという感覚、書記さんの言ってた成果というのは、平たく言えば資本主義の枠組みの中での評価で、自分の位置を与えてくれるもので、それもすごく大事なんだけども、やっぱりこういう絵の世界のなかにずっと浸っていて、ふだんはこう、穏やかな画家さんの雰囲気からはまったくわからないわけじゃないですか、平穏な日常と、隣り合わせの死の世界というのがあって、それと作品がどうのこうのじゃないけども、彼らは慣れちゃってるんですよね、ぜんぜん。ひたすら死にさらされることで生き延びるドゥルーズ的なマゾヒズムの世界だよな、そこから強引に『自転車泥棒』の話に持っていくと、やっぱり後半動物の、戦場でゾウ使いが撃たれて、死ぬ前に頼むんですよね、もう助からないから殺して埋めてくれと、じゃないと苦痛で呻いたら烏が食べにきて呪われちゃうからと。どんどんあっちの世界に近づいていって、語りの目玉の話なんかはグロテスクなものになって、ただ画家さんの絵と違うのは、画家さんの絵は死の世界がきちっと構築されてるけども、『自転車泥棒』のほうではまだそこまで構築されてない、あっちの世界に、一気にいっちゃってる感じがある。読んでいてやっぱり不安になるし、うん、行って戻って、行って、戻って、不安になったら、こんどは一息ついて、そういう運動が小説の原動力で、読むことの快楽にもつながっているんだろうな。

台北

総括
「お前は四十五歳までしか生きられない」。作中で主人公が幼少期に言われた言葉(トラウマ体験)ですが、これは何だったんでしょうか。ひとつわかるのは、三島由紀夫がこの年齢(45歳)でなくなったことです。
三島由紀夫が戦後の日本文学を語る上で大切なのは言うまでもありませんが、いま読む人はそれほどいない気もします。たとえば「鏡子の家」を読んでいる人はどれほどいるんでしょうか。(ちなみに私はまだです)
おそらく2000年代以降で村上春樹を意識しない作家はいないと思われますが、その村上も(明言はしてませんが)三島をバリバリ意識していた作家です。そして呉明益もまた三島の影を随所に感じさせる作家です。「四十五歳までしか生きられない」という言葉は、自らに三島を重ね合わせる試みでもあったのでしょう。
ほかに「英霊」の特徴的な描写や、自分の喫茶店に「鏡子の家」と名付ける青年アッバスなど三島作品の変奏という点では近年まれに見る傑作ではないでしょうか。
またアッバスは写真家でもありますが、アメリカの写真家ダイアン・アーバスを想起させる点を書記氏が教えてくれました。アッバスが店(「鏡子の家」)に展示する自分の写真について「不快感を呼び起こす」と述べていますが、ダイアン・アーバスの写真もどちらかというと「不快」なものと近い関係にあります。そしてダイアン・アーバスは、三島の亡くなった年の翌1971年に自らの命を絶っています。48歳でした。
自転車泥棒』には、「平岡君」なる人物が登場する『眠りの航路』という連作がありますが、こちらに関してはまたいずれ。

[課題本推薦者・団長]

編集後記
タピオカ市場の盛衰から「誠品生活」の日本上陸に至る真っただ中で、『自転車泥棒』の邦訳は刊行されました。タピオカの流行には乗れませんでしたが、台湾的なモジュールに和の文化の上澄みをさらった最新鋭の複合施設の上陸には私も胸おどらせて飛びつきました。「誠品生活」日本橋店はその中核となる書店部を含め、内容はともかくとして全体的になんとなく最高の雰囲気、そしてサービスでした。軽い自転車と重い自転車の両輪で走りたい道があります。たとえば司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾紀行』であれば、おそらくそうでしょう。
今回の読書会は団長さんとのマンツーマンでした。始まってまもなくでしたが、団長さんが「フェティッシュ」と口にしたとき、正直、すでに私は今回の課題本『自転車泥棒』から一本とったような気がしました。「フェティッシュ」、そして「英霊」と、考察の糸口が連打された驚きは、これからも私を何度でも『自転車泥棒』の世界へと連れ戻してくれるでしょう。

[書記]

次回、読書会は8月開催予定、課題本はリチャード・バック村上龍訳の『イリュージョン』です。

 

太宰治「津軽」読書会報告2021年12月

読書会概要

日時 2021年12月18日(土)16時〜18時
場所 東京都内 某喫茶店
参加者 団長 医務 書記
課題本 太宰 治 著『津軽』 推薦者:書記

去年10月に開催を予定していた前回の読書会はコロナ禍を踏まえて中止になりました。
約1年4ヶ月ぶりとなります今回の読書会では、課題本も変更して臨みました。今回の課題本は太宰治の『津軽』。推薦者は私、書記が担当しました。
参加者は団長、医務、書記(私)の3名です。
団長さんは津軽地方出身です。同郷人の太宰治の本を読むのは中学生以来ということでしたが、当時は太宰の名で刊行されていた文庫本をほとんど一息に読破してしまうほど熱中されたそうです。
医務さんは太宰治が晩年を暮らした三鷹市界隈を生活圏としており、読書会に先だって禅林寺ぜんりんじ下連雀しもれんじゃく)にある太宰の墓にも参られました。中学生の頃に教科書で読んだ「走れメロス」が太宰治の小説との最初の出会いで、当時は授業そっちのけで読みふけってしまったそうです。
私には特にさしせまった因縁はございません。ただ太宰好きが高じて2008年1月、津軽地方を旅行しました。作品に関しても常に新たな魅力が発見できる、最重要作家の一人として認識しております。
さて、今回の読書会からボイスメモを録らせていただくことになりました。書記としての私の怠慢を助長するICレコーダーの導入に賛否両論あるかと思いきや、参加者の皆様におかれましては快く承諾していただき感謝しております。
皆様、この一年本当にお疲れ様でございました。どうぞ読書の愉楽のひとときに、私たちピクルス騎士団とお寛ぎ下さいませ。

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斜陽館(五所川原市・2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

読書会報告

1.書記による『津軽』概要

書記、来店。

某喫茶店ご主人:こちらの予約席は団体様基本4名様からなのですが、本日は大切なお話し合いということなので、誠に勝手ながらご用意させていただきました。また、周囲の席に他のお客様がお座りにならないよう配慮もさせていただきますのでご安心ください。

書記:ありがとうございます。

団長、来店。

医務、来店。

書記:では、はじめます。2021年12月18日土曜日16時10分、場所、東京都内某喫茶店。課題本、太宰治の『津軽』です。よろしくお願いします。
まず推薦者として『津軽』の概要を簡単にお話しします。刊行は1944年11月15日、昭和19年です。小山書店が発行元になっています。内容については、著者の太宰治が故郷の津軽地方を旅し、自分にゆかりのある人々の暮らしや厳しい自然に触れる中で、津軽の風土と人間を浮き彫りにするとともに自分の過去を見つめなおしていく作品になっています。従来、旧制度的な家からの脱出ですとか、自分自身あるいは社会からの逃亡といったネガティブな面が強調されることが多い太宰文学にあって、自分の運命を凝視し、回顧する、特異な位置をしめています。

某喫茶店女性店員:お待たせしました。ブレンドでございます。

医務:ありがとう。

書記:これに執筆の時期や制作の経緯など書誌的な事実を付けくわえますと、こちら小山書店の設立者であります小山おやま久二郎ひさじろうという方の回想記に依拠する情報ですが、『津軽』はこの小山久二郎の依頼で、「風土記しんふうどき叢書そうしょ」という全8編あるシリーズものの7編目として書かれています。
取材期間は1944年5月12日から6月5日、執筆期間に関しては起稿が6月15日、脱稿が7月末になっています。
「新風土記叢書」についても少し触れると、1936年昭和11年から1948年昭和23年にかけて全8編が刊行されています。初刊の前年、小山の友人の河盛かわもり好蔵よしぞうというフランス文学者からの提案がきっかけになったとのこと、《現在のよりすぐりの文人に自分の故郷を語らせ、またその土地出身の画家に挿絵を描いてもらう》という案で、この提案を小山が気に入りすぐに企画を立ちあげたそうです。

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ストーブ列車(津軽鉄道・2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

2.団長と『津軽』、あるいは故郷

団長:地元の人間でないと読むのが難しいというか、文庫本(新潮)のあとがきで、亀井かめい勝一郎かついちろうがたしか推してたと思うんだけど、亀井勝一郎がこの『津軽』の何がいいって言ってるのかよくわからない……

医務:『津軽』の?

団長:そう、昭和十年代に保田やすだ与重郎よじゅうろう(文芸評論家1910-81)を中心に日本浪漫派というグループがあって、そこにおそらく太宰は亀井の紹介で入ってるのかな、文学史的に言えば泥沼の戦争に入っていく一方で美的な文章を書く日本浪漫派があって、戦後は批判されるんだけど、そうした文学史的な流れがあって、太宰の作品も「十二月八日」にしても「散華」にしても簡単に言えば戦争に協力するような部分があって、でもよく読めば(戦争に対する)絶妙な皮肉が利かせてあったりとか、ぎりぎりのバランスの作品をいくつも書いてて、今回ちょっと読み直してみて、おお、この人すごいなと……。

書記:上手ですね。

団長:そう、日本浪漫派の中では小説を書かしたら太宰がもう抜群にセンスを持ってる人で、その中で『津軽』は要は紀行文で、地元紹介の文章だから、地元の人たちに対するサービス精神で書いてるかどうかはわからないけど、他の作品に比べて読みにくいかなっていう……。『帝国の亡霊』という本を書いてる丸川哲史(歴史家・文芸評論家1963-)さんが論文で「思い出」と『津軽』を論じてて、その中で行幸天皇が内裏から他所に移動すること)、昭和天皇が日本各地をまわってたんだけど、青森には結局来なかった、たしか来てなかったって話してて、それで、太宰はその代わりにやってるんじゃないかっていう話を書いてるんだよね。太宰が『津軽』を執筆した時期の日本の領土はぐちゃぐちゃで、日本はどこまでが日本なのか、どこかで国の意識を持たなければならないところがあって、『津軽』を書くといって青森という一地方を日本の読者に届けるときに、天皇のふりをするっていうやり方はうまいし、実際に意識したかはわからないけどもそういうふうにも読めるし、まあ、そうやってみていくと面白いなと。しかもたしか序編のあとが巡礼となってて、巡幸だというふうに丸川さんは書いてたと思うんだけど、そういう形で津軽地方を紹介していく面白さというのが一つ。
それと最後にタケが出てくる場面でいきなり小説になる、それまでは地元の紹介で、知人とだらだらしながら飲み歩いてたけど、最後だけ雰囲気が変わる。締めとしてタケを持ってこないと収まりがつかないというか、これはもう特別な人なんだなとわかる。どこかで自分の足を中央の文壇から引き離して、それでも中央の人たちにもわかるような形で、自分と地元との繋がりを表そうとするときにタケは必要で、たしか「思い出」の最後もタケの話で終わってると思うんだけど、そうやってまとめるのが太宰の上手いところだね。
あと気になったところは、弘前を紹介しているあたりかな。津軽人の気質、見栄っぱりな部分はたしかにあるんですよ。太宰が紹介してるような津軽人の強情っぱりなところ。それで、津軽塗という漆器があるんだけど……

医務:うん、知ってる。

団長:あれ馬鹿塗りという異名があってね、うちの爺さんもちょっと作ってたけど、弘前の表象というか、津軽人はこういうもの、というのがこの時代からあったんだなと思ったね。日本酒で「つがる じょっぱり」というのがあったりとか、このあたりのイメージがいまだに残ってるんだなと。あとタケの他に文学的になるくだりがあって、弘前城にのぼったときに城下町が隠沼(こもりぬ)に見えてぞっとしたと書かれてて、それがもう万葉集でいう「隠沼」なんだというようなところがあって、そこはうまいこと書いてくれたというか、浪漫派っぽく書いてくれてるなという……ただこれは津軽弁の話とも関わってくるんだけど、太宰も書いてるけど東北には自分たちの歴史がないんだよね、阿部比羅夫(7世紀中期の日本の将軍)の話が紹介されてたけど、中央から派遣された坂上田村麻呂とか都から派遣された武将が蝦夷(エゾ)というもやっとした東北の民族を服属させて、文字として残ってないから何があったのかはっきりわからないんだけど、実質残ってるのが津軽為信ためのぶ弘前藩初代藩主1550-1608)、その人も中央から派遣された武士の生き残りというか、それに仕えたのが津軽人で、その前はアイヌ人とかいたんだろうなというくらいで、ルーツがないんだけど、ルーツをなんとか言いたい感じが読んでてよくわかるんだけど、違和感というか、お城の上から殿さま目線で「隠沼」だというのも、さっきの丸川さんの話にそって行幸してる視線に重ねてもいいし、やっぱり支配された土地なんだな、って改めて感じられるというかね。
それから津軽弁のところでね、《私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。》って書いてるんだけど、東京の言葉と郷土のことっていうのは、二項対立というか、要するに文学にならないんだよね、おそらく郷土というのはある程度支配者側の視線を通してでなければ文学として流通しないんだよなと、あとはそう、読んでて弘前城のくだりは面白いし、みんなに流通させる装置は限られてるけど、そのあたりのバランスをとりつつ津軽を紹介していくという、太宰にしかできないことをやってる。
それから今回、高木たかぎ恭造きょうぞうという津軽の詩人を思いだしたんだけど、高木恭造の最初の詩集『まるめろ』が出たのが昭和6年、『津軽』よりも早いんだけど、高木はもともと新聞社に勤めてた人で、後に満州に渡ってひきあげの経験もあって、弘前の人は「津軽弁の日」というのを毎年楽しみにしてて、うちの母親も太宰は知らないけど高木恭造は知ってて、地方の中だけで流通する文化がある。太宰のことなんかみんなあまり知らないんだよね、まあ、又吉の紹介で広がったりとか、教科書に「走れメロス」が掲載されてたりとかあるけど、太宰が郷土を語ることの難しさはあっただろうなと、郷土にどっぷり入ってしまったらそりゃもう、紹介できるものじゃない、一方で郷土だけで流通する高木恭造が書いたような方言詩集があって、そのへんの対比も面白い。たとえばここ(団長が準備した資料の中)に一つ、「母親オガチャ」という高木恭造の詩を載せたんだけど、読むと《オガチャ》、《オガ――》の《オ》と《ガ》のあいだに「ン」が小さく入るんだけど、実際の音にすると――

医務:これ、津軽弁

団長:そう、津軽弁。《ツヅネ乳のみてぐなてけでもどたら母親オガチヤ薄暗ウスグレ流元ミジヤで白い体コバ洗てだオン》うちらが日常で使ってる言葉に近づけて詩にしてるんだけど、まあ、でもそのままじゃないんだよね、カタカナの使い方とか、音にすると「ン」とか小さな「ン、ン」とかいろんなアクセントが入るんだけど、こういうふうに形にすると、まあ、詩になるんだなと。俺が中学のときかな、国語の時間、先生が生徒に詩を書かして、集めて、手直しするんだよね、まあ、いい先生だったんだけど、その先生が直すと、微妙なイントネーションというか、カタカナのこの「ン、ン」とか入る言いまわしが特徴的で、後から考えると方言詩との関わりもあったんだろうなと思う。

医務:みんなこんなふうに書くの? 青森で詩を書くと。

団長高木恭造だけだと思う。方言は書き言葉にならないんだよね、おそらく。

書記:あえてやればこういう形になる。

団長:そう、あえてやればこうなるっていうね。要は、書き言葉としての詩の中に話し言葉としての津軽弁が紛れていたりして、それを先生が手直しして引き出してくれると、ちょっとした詩的な効果が現れてくると……。

医務:これ詩なんだ……。高木恭造って人、書記さんは知ってた?

書記:家に詩集が一冊ありましたけど、ちゃんと読んだことなくて……。

医務:ポピュラーなの?

団長:いや、まったく。

医務:知らなくても恥じゃない?

団長:ぜんぜん恥じゃない。

書記宮澤賢治とは違いますね。

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JR弘前駅前(2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

 3.団長おススメのスポット

団長弘前でおススメなのは「禅林街ぜんりんがい」、これね、おススメなんですよ。曹洞宗そうとうしゅうの寺が33並んでて、道の入り口に大きな門があって、もう、異様なんだよ。一番奥に津軽の代々の殿さまが埋葬されてる長勝寺ちょうしょうじという寺があって、戦後すぐの頃ミイラ騒ぎがあったんだけど、ここ、12代の藩主になるはずだった人が若くして亡くなっちゃたんだけど、承祜つぐとみという名前だったかな、この人が土葬で、ミイラ化して奇跡的に保存されてたんだよね、95年に親族の希望で火葬されたんだけど、そこがね、すごいんだよね、ぜんぜん違う空間、楽しいところではないけど、あそこは行っていいかなあ。

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アウガ新鮮市場(青森市・2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

4.津軽的郷土愛

団長:でもなんていうかね、ぜんぜん需要が違うんですよ。太宰と高木恭造は。うちの婆さんでも知ってるところがすごくて。

書記:太宰は知らないけど高木恭造は知ってるんだ。

団長:うん。

医務:へえ、それすごいね。

団長:うちの母親も毎年かならず「津軽弁の日」のCD買って聞いてる。

医務:郷土愛だね。

団長:郷土愛というかね、たんに向こうのエンターテイナーというか、太宰もね、津軽弁のことはちょっと話したりしてるけど――

医務:太宰も津軽の人のこと褒めてる感じがするから、やっぱりあるんだよね、ほら接待がすごく得意だとか、だから大事に思ってるのかなって。

団長:だぶんね、田舎行くと接待はすごいと思う。うちも接待はすごくて、来客があるとわけわかんなく物をいっぱい出すんだよね。

医務:田舎ってそうよね。

団長:そうそう、でも奥に行くと、日本の奥に行くと、あるよなあ。

書記:その特殊な接待のあり方ってイタコの口寄せなんかとも相性がよさそうですね。

団長:でもいまもうイタコはいないと思うんだよな、絶滅しちゃってんじゃないかな。

医務:私が行ったときもうほとんどいなかった。数人? だからその人たちに話を聞こうとすると何ヶ月も前から予約を入れないと話ができないって聞いた。

書記:いやあ、青森はつくづく魅力的なとこっすね。イタコやらなんやらあるけど、まず魚がうまい。魚に関しては私は青森が日本一だと思ってますよ、ほんとに。

医務:え~、静岡(註:静岡には医務さんのご実家がある)もおいしいわよ。

書記:静岡も北海道もおいしいす。でも魚に関しては、私は青森が一番ですね。

団長:俺も静岡に7年いたけど――

医務:えっ! 静岡に7年もいたの?

団長:かみさんの実家、静岡だから。

医務:えっ、えっ、嫌、そうなの!? 静岡のどこ?

団長:静岡の、A区。

医務:えーーーっ!? すっごい、近所じゃない。

団長:いまはやってないけど、かみさんの実家お茶の工場やってて。あんなに住みやすいところあんのかなって。気候もいいしね。魚ももちろんおいしかった。やっぱり青森の魚料理って野蛮な感じがするんすよ、なんかこう、鱈とかも向こう(津軽)の人って、鍋に頭でもなんでも入れて――

書記:料理をしない?

団長:そう、もうごった煮みたいなのが多くて、舌触りが上品じゃなくて、原始的な味がする、北海道とか新鮮だったけど、料理は向こうの方が……わかります?

書記:ええ、なんか今とてもよくわかりました。

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陸奥湾の眺め
外ヶ浜町・観瀾山公園・2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine 

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蟹田の大衆食堂(外ヶ浜町・2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

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JR蟹田駅(2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

5.医務は激怒した――

医務:私はあまり静岡好きじゃないんだけどね。

団長:でも魚は好きなんでしょう?(笑)

医務:うん、お茶も好きだよ、ミカンも好き。昔はみんなミカン作ってたから買って食べたことなかった。かならず誰かがくれた。いまはそうじゃないけど、お茶とミカンは買って食べたり飲んだりしなかった。

書記:へえ、静岡にミカンのイメージなかったなあ(註:この人はおととし写真撮影のため静岡のミカン畑を訪れたときの記憶を一時的に失っております)。

団長:冷凍ミカン、給食で出るんだよね。あと静岡の小学生って、学校の給食で緑茶を飲むんすよ。

医務:うん、お茶はあたりまえね。

書記:まさか学校の水道からお茶は出てこないっすよね?

医務:それはなかった(笑。

書記:医務さんは静岡のお生まれですか?

医務:大阪で生まれて小学校のときに静岡に引っ越したんだけど、なんで私が静岡が好きじゃないかってことなんだけどね、大阪から行ったじゃない、それで静岡の印象が商売っ気がないっていうか、殿さま商売でさ、ほらもう、お店もすごく早い時間に閉まっちゃったりとか、競争相手がいないから、いまはそうじゃないかもしれないけど、そういうイメージがあったの。

団長:うん、そういう話、聞いたことあるな。

医務:鉄道だって静岡鉄道とJRしかないし、東京だとたくさん鉄道あるから値段下げたりとかいろいろあるじゃない?

書記:小学生の頃そんなこと考えてたんですか?

医務:いや、大人になってからだけど、なんかこう、もっとやればいいのにってね。静岡っていまだにぜんぜん発展しないというか、中途半端な感じ。

団長:うん、中途半端な感じはする。

医務:ときどき帰ってもさ、5年10年経ってれば商店街にもっと活気があってもいいのにさ、何も変わんないの。

団長:変わらないよねえ……。

医務:ほんと変わんないよ!(怒)

団長:まあ、落ちついてて……いい場所なんだけどね。

医務:ふっ。

書記:私は浅間通りとかね、大好きですよ。

団長:あっ、浅間通り!

医務:あんなとこほとんどシャッター街じゃない、書記さん静岡の話んなるとすぐ浅間通りのこと言うね、好きだって。あんな何もないとこなんで好きなの?

書記:浅間様には世阿弥の足跡(註:父観阿弥最後の演能舞台の記念碑)がありますからね、祀られてる神さまのラインナップもいいし……でも何よりまず、浅間通りにはうまいおでん屋があるんですよ、知りませんか?

医務:ああ、知ってる。「おがわ」ってお店でしょう?

書記:ええ。私は静岡おでんが最高のおでんだと思ってますよ、ほんとに。

団長:でもおでん屋も潰れてきてるよねえ、昔は駄菓子屋で食べられたけど……。

医務:駄菓子屋で食べてたねえ。

団長:浅間通りではないけど、それほど離れてないところに俺がよく行ってたカレー屋があって、地元ではわりと有名な店で、そこのマスターが言ってたんだけど、やっぱり食いつかないって。静岡人相手に何か商売やろうとしても食いつきが悪いって。

医務:あんな商店街だってさ、静岡の中では立地がいいんだから、もっといろんな人が出店すればいいのにね。

書記:これまでやってきて失敗してきた経緯があるのかもしれませんね。

団長:失敗というか、ぜんぜんやろうとしてない。高校で教員やってたからわかるんだけど、私学のスポーツの力の入れ方もさ、サッカーでいうと中学までは強いんだけど、高校になると才能のある人たちがみんな外に行っちゃう、留めようとしないんだよね、私学の戦略もえげつなくないの、いいことでもあるのかもしれないけどさ、青森の有名私学なんてものすごくえげつなくお金使って選手集めてる。

医務:サッカー、静岡は昔すごく強かったのにね。

団長:経営者がそこまでえげつなくないから。

医務:要は、のんびりしている。そういうところが静岡の気質ってことかな。

団長浜松市まで行くとまた少し気性が荒いっていうね。

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JR三厩駅より(2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

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JR津軽線の車窓より(2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

総括・編集後記

竹内運平(『青森県通史』)、芭蕉(「行脚掟」)、佐藤弘理学士(『奥州産業総説』)、橘南谿(『東遊記』)など、太宰は『津軽』執筆にあたってこれらの人の文献にあたりそのまま引用している箇所も少なくありません。これは「津軽人」の気質や負の歴史に寄せる、太宰なりの配慮であったり、リスペクトの形であったかもしれません。そして太宰自身の『津軽』執筆の意図もその本文中に、いくつか形を変えて現れております。それらの意図が、そもそもその一編として収録された『新風土記叢書』のシリーズ全体の企画意図の中でいかに位置づけられるか、ということを考えてみるのも楽しいかと思います。互いを照合させる手段は、幸運にも現在の私たちにとって決して遠くにはございません。しかしそこまで掘り下げなくとも太宰が『津軽』本文中で著している執筆意図、あるいは目的が、一般に紀行文とされる様式あるいは定義(旅行中の体験、見聞、感想などを書き綴った文章)のさまざまな要件の一つとして妥当であるか、を考えたときに、ひときわ異質なものとして立ち上がってくる興味深い言葉が、「愛」という一語でございます。
《私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。》【太宰治津軽』序編末尾より】
愛には犠牲がつきものでございます。太宰の『津軽』を求めて今日も、14年前の若かりし頃の自分同様、少なくない数の読者が「津軽」にむけて出発することでしょう。

[課題本推薦者・書記]

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JR五所川原駅(2008.1)
写真提供:Boing-Boing engine

Special thanks to "Boing-Boing engine"

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芦野公園(五所川原市・2008.1)

次回の読書会は春を予定しております。課題本は呉明益の長編小説『自転車泥棒』、推薦者は団長です。乞うご期待ください。

 

馳星周「少年と犬」読書会概要2020年10月

読書会の概要です。

開催日時:2020年10月17日土曜日19時30分〜

開催地:東京

課題図書:馳星周『少年と犬』(推薦者:ピクルス騎士団・団長さん)

【第163回 直木賞受賞作】少年と犬 (文春e-book)
 

一匹の犬とさまざまな事情を抱えた人々の交流を描いた本書は、ノワール小説の旗手、馳星周が描いた異色の連作短編集です。2020年5月15日に文藝春秋から刊行され、同年7月5日に第163回直木賞を受賞しました。帯に記された《人という愚かな種のために、神が遣わした贈り物》という引用が鮮烈で、書店通いを習慣にしている方であればまだ読まれていなくてもこの本の存在を記憶している方は多いかと思います。なお、収録作品の初出誌はすべて『オール讀物』で、2017年10月号から2020年1月号まで全6話が掲載されました。

 

連作短編集『少年と犬』とその構成

東北から九州を目指すシェパードの血の濃い雑種犬「多聞」の旅を主軸に物語は展開します。旅が主軸とはいえジャック・ケルアックの『路上』のような紀行文風の小説ではありません。「多聞」は叙述しません。小説全体の理念としてアナロジーの働きを限定的に捉えてはいませんが、物語内で「多聞」が擬人化されて描かれている場面はありません。「多聞」は徹頭徹尾、犬です。私の顔見知りにはとうてい犬らしくもない犬が幾分混じっていますが、「多聞」はどこまでも犬らしい犬で安心です。だからこそより一層、《人という愚かな種のために、神が遣わした贈り物》という言葉が自然な説得力を放ちます。本書は三人称で描かれています。各話の視点者は《愚かな種》の構成員、「多聞」が旅の途上で出会うさまざまな事情を抱えた人々の方です。

以下、各話のタイトルを順に記します。

「男と犬」(オール讀物2018年1月号)

「泥棒と犬」(2018年4月号)

「夫婦と犬」(2018年7月号)

「娼婦と犬」(2019年1月号)

老人と犬」(2020年1月号)

「少年と犬」(2017年10月号)

 

『少年と犬』あらすじ

犬の名は多聞。2011年仙台を発ち2016年熊本に至るその長い旅の軌跡には傷つき、悩み、惑う人間の姿があったーー家族のために犯罪に手を染めた男(岩手県)、仲間割れを起こして故国を目指す窃盗団の男(岩手県から新潟県)、それぞれ別の名で犬を呼ぶ壊れかけた夫婦(富山県)、どん底の人生で体を売り男に貢ぐ女(滋賀県)、死期を迎えた老猟師(島根県)、そして震災のショックで心を閉ざした少年(熊本県)ーー束の間を共に生き、導き導かれる人と犬。はたして彼らの物語の終着点には何があるのか。

【第163回 直木賞受賞作】少年と犬 (文春e-book)