太宰治「津軽」読書会報告2021年12月
読書会概要
日時 2021年12月18日(土)16時〜18時
場所 東京都内 某喫茶店
参加者 団長 医務 書記
課題本 太宰 治 著『津軽』 推薦者:書記
去年10月に開催を予定していた前回の読書会はコロナ禍を踏まえて中止になりました。
約1年4ヶ月ぶりとなります今回の読書会では、課題本も変更して臨みました。今回の課題本は太宰治の『津軽』。推薦者は私、書記が担当しました。
参加者は団長、医務、書記(私)の3名です。
団長さんは津軽地方出身です。同郷人の太宰治の本を読むのは中学生以来ということでしたが、当時は太宰の名で刊行されていた文庫本をほとんど一息に読破してしまうほど熱中されたそうです。
医務さんは太宰治が晩年を暮らした三鷹市界隈を生活圏としており、読書会に先だって
私には特にさしせまった因縁はございません。ただ太宰好きが高じて2008年1月、津軽地方を旅行しました。作品に関しても常に新たな魅力が発見できる、最重要作家の一人として認識しております。
さて、今回の読書会からボイスメモを録らせていただくことになりました。書記としての私の怠慢を助長するICレコーダーの導入に賛否両論あるかと思いきや、参加者の皆様におかれましては快く承諾していただき感謝しております。
皆様、この一年本当にお疲れ様でございました。どうぞ読書の愉楽のひとときに、私たちピクルス騎士団とお寛ぎ下さいませ。
読書会報告
1.書記による『津軽』概要
書記、来店。
某喫茶店ご主人:こちらの予約席は団体様基本4名様からなのですが、本日は大切なお話し合いということなので、誠に勝手ながらご用意させていただきました。また、周囲の席に他のお客様がお座りにならないよう配慮もさせていただきますのでご安心ください。
書記:ありがとうございます。
団長、来店。
医務、来店。
書記:では、はじめます。2021年12月18日土曜日16時10分、場所、東京都内某喫茶店。課題本、太宰治の『津軽』です。よろしくお願いします。
まず推薦者として『津軽』の概要を簡単にお話しします。刊行は1944年11月15日、昭和19年です。小山書店が発行元になっています。内容については、著者の太宰治が故郷の津軽地方を旅し、自分にゆかりのある人々の暮らしや厳しい自然に触れる中で、津軽の風土と人間を浮き彫りにするとともに自分の過去を見つめなおしていく作品になっています。従来、旧制度的な家からの脱出ですとか、自分自身あるいは社会からの逃亡といったネガティブな面が強調されることが多い太宰文学にあって、自分の運命を凝視し、回顧する、特異な位置をしめています。
医務:ありがとう。
書記:これに執筆の時期や制作の経緯など書誌的な事実を付けくわえますと、こちら小山書店の設立者であります
取材期間は1944年5月12日から6月5日、執筆期間に関しては起稿が6月15日、脱稿が7月末になっています。
「新風土記叢書」についても少し触れると、1936年昭和11年から1948年昭和23年にかけて全8編が刊行されています。初刊の前年、小山の友人の
2.団長と『津軽』、あるいは故郷
団長:地元の人間でないと読むのが難しいというか、文庫本(新潮)のあとがきで、
医務:『津軽』の?
団長:そう、昭和十年代に
書記:上手ですね。
団長:そう、日本浪漫派の中では小説を書かしたら太宰がもう抜群にセンスを持ってる人で、その中で『津軽』は要は紀行文で、地元紹介の文章だから、地元の人たちに対するサービス精神で書いてるかどうかはわからないけど、他の作品に比べて読みにくいかなっていう……。『帝国の亡霊』という本を書いてる丸川哲史(歴史家・文芸評論家1963-)さんが論文で「思い出」と『津軽』を論じてて、その中で行幸(天皇が内裏から他所に移動すること)、昭和天皇が日本各地をまわってたんだけど、青森には結局来なかった、たしか来てなかったって話してて、それで、太宰はその代わりにやってるんじゃないかっていう話を書いてるんだよね。太宰が『津軽』を執筆した時期の日本の領土はぐちゃぐちゃで、日本はどこまでが日本なのか、どこかで国の意識を持たなければならないところがあって、『津軽』を書くといって青森という一地方を日本の読者に届けるときに、天皇のふりをするっていうやり方はうまいし、実際に意識したかはわからないけどもそういうふうにも読めるし、まあ、そうやってみていくと面白いなと。しかもたしか序編のあとが巡礼となってて、巡幸だというふうに丸川さんは書いてたと思うんだけど、そういう形で津軽地方を紹介していく面白さというのが一つ。
それと最後にタケが出てくる場面でいきなり小説になる、それまでは地元の紹介で、知人とだらだらしながら飲み歩いてたけど、最後だけ雰囲気が変わる。締めとしてタケを持ってこないと収まりがつかないというか、これはもう特別な人なんだなとわかる。どこかで自分の足を中央の文壇から引き離して、それでも中央の人たちにもわかるような形で、自分と地元との繋がりを表そうとするときにタケは必要で、たしか「思い出」の最後もタケの話で終わってると思うんだけど、そうやってまとめるのが太宰の上手いところだね。
あと気になったところは、弘前を紹介しているあたりかな。津軽人の気質、見栄っぱりな部分はたしかにあるんですよ。太宰が紹介してるような津軽人の強情っぱりなところ。それで、津軽塗という漆器があるんだけど……
医務:うん、知ってる。
団長:あれ馬鹿塗りという異名があってね、うちの爺さんもちょっと作ってたけど、弘前の表象というか、津軽人はこういうもの、というのがこの時代からあったんだなと思ったね。日本酒で「つがる じょっぱり」というのがあったりとか、このあたりのイメージがいまだに残ってるんだなと。あとタケの他に文学的になるくだりがあって、弘前城にのぼったときに城下町が隠沼(こもりぬ)に見えてぞっとしたと書かれてて、それがもう万葉集でいう「隠沼」なんだというようなところがあって、そこはうまいこと書いてくれたというか、浪漫派っぽく書いてくれてるなという……ただこれは津軽弁の話とも関わってくるんだけど、太宰も書いてるけど東北には自分たちの歴史がないんだよね、阿部比羅夫(7世紀中期の日本の将軍)の話が紹介されてたけど、中央から派遣された坂上田村麻呂とか都から派遣された武将が蝦夷(エゾ)というもやっとした東北の民族を服属させて、文字として残ってないから何があったのかはっきりわからないんだけど、実質残ってるのが津軽
それから津軽弁のところでね、《私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。》って書いてるんだけど、東京の言葉と郷土のことっていうのは、二項対立というか、要するに文学にならないんだよね、おそらく郷土というのはある程度支配者側の視線を通してでなければ文学として流通しないんだよなと、あとはそう、読んでて弘前城のくだりは面白いし、みんなに流通させる装置は限られてるけど、そのあたりのバランスをとりつつ津軽を紹介していくという、太宰にしかできないことをやってる。
それから今回、
医務:これ、津軽弁?
団長:そう、津軽弁。《
医務:みんなこんなふうに書くの? 青森で詩を書くと。
団長:高木恭造だけだと思う。方言は書き言葉にならないんだよね、おそらく。
書記:あえてやればこういう形になる。
団長:そう、あえてやればこうなるっていうね。要は、書き言葉としての詩の中に話し言葉としての津軽弁が紛れていたりして、それを先生が手直しして引き出してくれると、ちょっとした詩的な効果が現れてくると……。
医務:これ詩なんだ……。高木恭造って人、書記さんは知ってた?
書記:家に詩集が一冊ありましたけど、ちゃんと読んだことなくて……。
医務:ポピュラーなの?
団長:いや、まったく。
医務:知らなくても恥じゃない?
団長:ぜんぜん恥じゃない。
書記:宮澤賢治とは違いますね。
3.団長おススメのスポット
団長:弘前でおススメなのは「
4.津軽的郷土愛
団長:でもなんていうかね、ぜんぜん需要が違うんですよ。太宰と高木恭造は。うちの婆さんでも知ってるところがすごくて。
書記:太宰は知らないけど高木恭造は知ってるんだ。
団長:うん。
医務:へえ、それすごいね。
団長:うちの母親も毎年かならず「津軽弁の日」のCD買って聞いてる。
医務:郷土愛だね。
団長:郷土愛というかね、たんに向こうのエンターテイナーというか、太宰もね、津軽弁のことはちょっと話したりしてるけど――
医務:太宰も津軽の人のこと褒めてる感じがするから、やっぱりあるんだよね、ほら接待がすごく得意だとか、だから大事に思ってるのかなって。
団長:だぶんね、田舎行くと接待はすごいと思う。うちも接待はすごくて、来客があるとわけわかんなく物をいっぱい出すんだよね。
医務:田舎ってそうよね。
団長:そうそう、でも奥に行くと、日本の奥に行くと、あるよなあ。
書記:その特殊な接待のあり方ってイタコの口寄せなんかとも相性がよさそうですね。
団長:でもいまもうイタコはいないと思うんだよな、絶滅しちゃってんじゃないかな。
医務:私が行ったときもうほとんどいなかった。数人? だからその人たちに話を聞こうとすると何ヶ月も前から予約を入れないと話ができないって聞いた。
書記:いやあ、青森はつくづく魅力的なとこっすね。イタコやらなんやらあるけど、まず魚がうまい。魚に関しては私は青森が日本一だと思ってますよ、ほんとに。
医務:え~、静岡(註:静岡には医務さんのご実家がある)もおいしいわよ。
書記:静岡も北海道もおいしいす。でも魚に関しては、私は青森が一番ですね。
団長:俺も静岡に7年いたけど――
医務:えっ! 静岡に7年もいたの?
団長:かみさんの実家、静岡だから。
医務:えっ、えっ、嫌、そうなの!? 静岡のどこ?
団長:静岡の、A区。
医務:えーーーっ!? すっごい、近所じゃない。
団長:いまはやってないけど、かみさんの実家お茶の工場やってて。あんなに住みやすいところあんのかなって。気候もいいしね。魚ももちろんおいしかった。やっぱり青森の魚料理って野蛮な感じがするんすよ、なんかこう、鱈とかも向こう(津軽)の人って、鍋に頭でもなんでも入れて――
書記:料理をしない?
団長:そう、もうごった煮みたいなのが多くて、舌触りが上品じゃなくて、原始的な味がする、北海道とか新鮮だったけど、料理は向こうの方が……わかります?
書記:ええ、なんか今とてもよくわかりました。
5.医務は激怒した――
医務:私はあまり静岡好きじゃないんだけどね。
団長:でも魚は好きなんでしょう?(笑)
医務:うん、お茶も好きだよ、ミカンも好き。昔はみんなミカン作ってたから買って食べたことなかった。かならず誰かがくれた。いまはそうじゃないけど、お茶とミカンは買って食べたり飲んだりしなかった。
書記:へえ、静岡にミカンのイメージなかったなあ(註:この人はおととし写真撮影のため静岡のミカン畑を訪れたときの記憶を一時的に失っております)。
団長:冷凍ミカン、給食で出るんだよね。あと静岡の小学生って、学校の給食で緑茶を飲むんすよ。
医務:うん、お茶はあたりまえね。
書記:まさか学校の水道からお茶は出てこないっすよね?
医務:それはなかった(笑。
書記:医務さんは静岡のお生まれですか?
医務:大阪で生まれて小学校のときに静岡に引っ越したんだけど、なんで私が静岡が好きじゃないかってことなんだけどね、大阪から行ったじゃない、それで静岡の印象が商売っ気がないっていうか、殿さま商売でさ、ほらもう、お店もすごく早い時間に閉まっちゃったりとか、競争相手がいないから、いまはそうじゃないかもしれないけど、そういうイメージがあったの。
団長:うん、そういう話、聞いたことあるな。
医務:鉄道だって静岡鉄道とJRしかないし、東京だとたくさん鉄道あるから値段下げたりとかいろいろあるじゃない?
書記:小学生の頃そんなこと考えてたんですか?
医務:いや、大人になってからだけど、なんかこう、もっとやればいいのにってね。静岡っていまだにぜんぜん発展しないというか、中途半端な感じ。
団長:うん、中途半端な感じはする。
医務:ときどき帰ってもさ、5年10年経ってれば商店街にもっと活気があってもいいのにさ、何も変わんないの。
団長:変わらないよねえ……。
医務:ほんと変わんないよ!(怒)
団長:まあ、落ちついてて……いい場所なんだけどね。
医務:ふっ。
書記:私は浅間通りとかね、大好きですよ。
団長:あっ、浅間通り!
医務:あんなとこほとんどシャッター街じゃない、書記さん静岡の話んなるとすぐ浅間通りのこと言うね、好きだって。あんな何もないとこなんで好きなの?
書記:浅間様には世阿弥の足跡(註:父観阿弥最後の演能舞台の記念碑)がありますからね、祀られてる神さまのラインナップもいいし……でも何よりまず、浅間通りにはうまいおでん屋があるんですよ、知りませんか?
医務:ああ、知ってる。「おがわ」ってお店でしょう?
書記:ええ。私は静岡おでんが最高のおでんだと思ってますよ、ほんとに。
団長:でもおでん屋も潰れてきてるよねえ、昔は駄菓子屋で食べられたけど……。
医務:駄菓子屋で食べてたねえ。
団長:浅間通りではないけど、それほど離れてないところに俺がよく行ってたカレー屋があって、地元ではわりと有名な店で、そこのマスターが言ってたんだけど、やっぱり食いつかないって。静岡人相手に何か商売やろうとしても食いつきが悪いって。
医務:あんな商店街だってさ、静岡の中では立地がいいんだから、もっといろんな人が出店すればいいのにね。
書記:これまでやってきて失敗してきた経緯があるのかもしれませんね。
団長:失敗というか、ぜんぜんやろうとしてない。高校で教員やってたからわかるんだけど、私学のスポーツの力の入れ方もさ、サッカーでいうと中学までは強いんだけど、高校になると才能のある人たちがみんな外に行っちゃう、留めようとしないんだよね、私学の戦略もえげつなくないの、いいことでもあるのかもしれないけどさ、青森の有名私学なんてものすごくえげつなくお金使って選手集めてる。
医務:サッカー、静岡は昔すごく強かったのにね。
団長:経営者がそこまでえげつなくないから。
医務:要は、のんびりしている。そういうところが静岡の気質ってことかな。
団長:浜松市まで行くとまた少し気性が荒いっていうね。
総括・編集後記
竹内運平(『青森県通史』)、芭蕉(「行脚掟」)、佐藤弘理学士(『奥州産業総説』)、橘南谿(『東遊記』)など、太宰は『津軽』執筆にあたってこれらの人の文献にあたりそのまま引用している箇所も少なくありません。これは「津軽人」の気質や負の歴史に寄せる、太宰なりの配慮であったり、リスペクトの形であったかもしれません。そして太宰自身の『津軽』執筆の意図もその本文中に、いくつか形を変えて現れております。それらの意図が、そもそもその一編として収録された『新風土記叢書』のシリーズ全体の企画意図の中でいかに位置づけられるか、ということを考えてみるのも楽しいかと思います。互いを照合させる手段は、幸運にも現在の私たちにとって決して遠くにはございません。しかしそこまで掘り下げなくとも太宰が『津軽』本文中で著している執筆意図、あるいは目的が、一般に紀行文とされる様式あるいは定義(旅行中の体験、見聞、感想などを書き綴った文章)のさまざまな要件の一つとして妥当であるか、を考えたときに、ひときわ異質なものとして立ち上がってくる興味深い言葉が、「愛」という一語でございます。
《私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。》【太宰治『津軽』序編末尾より】
愛には犠牲がつきものでございます。太宰の『津軽』を求めて今日も、14年前の若かりし頃の自分同様、少なくない数の読者が「津軽」にむけて出発することでしょう。
[課題本推薦者・書記]
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次回の読書会は春を予定しております。課題本は呉明益の長編小説『自転車泥棒』、推薦者は団長です。乞うご期待ください。