リチャード・バック「イリュージョン」読書会2022年9月

読書会概要
日時 2022年9月10日(土)17:00〜19:00
場所 東京都内 某喫茶店
参加者 団長 医務 書記
感想文寄稿 画家
課題本 リチャード・バック著 村上龍
    『イリュージョン』(1977年9月初版)
課題本推薦者 医務

作品内容
イリノイの夏、遊覧飛行士リチャードは不思議な雰囲気を持った同業者ドン(ドナルド・シモダ)に出会う。ドンはかつて自動車修理工兼救世主としてアメリカの神の化身と呼ばれていた男だった。リチャードはドンの周囲で起こる奇妙な出来事に当惑しながらも、しだいに友人として、あるいは救世主の師としての彼を信頼するようになっていくがーー。

読書会経過

医務:『イリュージョン』は中学生の頃に親友から勧められて読んだ本です。自分は当時ブラスバンドにいたんですけど、吹奏楽コンクールの課題曲の名前がたまたま「イリュージョン」ということもあって。

書記:「イリュージョン」という曲は有名なんですか?

医務:課題曲は毎年変わって、「イリュージョン」はその年のコンクールのために作られた曲だからあまり一般的なものではないです。どこかの大学の吹奏楽部が弾いたものならたぶん、YouTubeで聴くことはできるけど。でもリチャード・バックの『イリュージョン』と関係性はなくて、ただ名前が同じだけ。
読んだ感想は、画家さんの感想文にも書かれているけど、サン=テグジュベリの『星の王子さま』に似てると思った、主人公が飛行機乗りであったりとか、物語の筋だてであったりとか。

書記:ジャンル分けすると何になるんでしょうね。

医務:どうなんだろう、ファンタジーなのかな。

書記:子供向け?

医務:『星の王子さま』もそうだけど、子ども向け、ではないよね、本当は。大人向けに作られた物語みたい、内容はちょっと児童文学っぽいところもあるけど。団長さんはどうでした?

団長アメリカ文学のこのあたりの本はこれまでぜんぜん読んでこなくて、今回『イリュージョン』読んで、ちょっとわからなかったなぁ、それで『かもめのジョナサン』読んで、ああなるほどとなって、ちょっと腑に落ちた。

書記:『イリュージョン』読んだ段階で、どんな疑問がありましたか?

団長:やっぱり救世主の話だから聖書のパロディというのはもちろんあって、それがアメリカ文学のどのへんに位置づけられるのか。『かもめのジョナサン』の文庫版の後書きで五木寛之が『イージーライダー』の話から始めてるんだよね、『イージーライダー』と、もう一本名前忘れたけど似たような映画を話の俎上にあげて、60年代と70年代のあいだの断絶を指摘して、『イージーライダー』でももう一本の映画でも最後に主人公が亡くなるんだけど、ヒッピー文化との関わりで読めるんじゃないか、と。『かもめのジョナサン』を読んで作者がどういう人かやっとわかって、読んでないけどたぶん『フェレットの冒険』とか他の作品でもこういう傾向かとか、『かもめのジョナサン』読んで『イリュージョン』を初めに読んだときの違和感がわかったんだけど……。

書記:どういう違和感でしょう。

団長:うん、その違和感を思いだすよ今(笑)

医務:ふふ。

団長:あったの(笑、それがわかってすごいすっきりしたことは覚えてて。

書記:そっか、五木寛之なんですね。

団長:そうそう、『かもめのジョナサン』の文庫版の後書きで五木寛之がぜんぶ書いてたんだよね、『イリュージョン』読んだときに俺が思ってた疑問点を。で、たしかにそう考えると『イリュージョン』にも当てはまって、やっぱりなんかあるよね、この作者は、と。そこの部分が見えてくると『イリュージョン』の文庫版の後書きで村上龍が言っている意味もわかってくる。村上龍は、リチャード・バックが日本にきたときに一緒に行動した話を書いてて、ものすごくやっぱり変わった人で。

医務村上龍も変わったイメージあるけど。彼が書いてる本も何冊か読んでて。

団長:まあでも、村上龍は大衆的というか、明快だよね。

医務:画家さんもなんか、そんな感じで感想書いてるよね。

書記:画家さんは飛行機とか飛ぶものに興味がある方なので、その点で何か引っかかりを持ったんじゃないでしょうか。

医務:作者が意図する目的が何なのかわからない、というようなことも画家さんは書いているよね。《ストンと腑に落ちるように伝わらない》、とも。だから、団長さんがいま話したこととも通じるような。

団長:そうねでも俺はストンと腑に落ちるところがあったんだよね。『イリュージョン』読んだだけだったらわからなかったけど。

医務:『かもめのジョナサン』読んでね。

団長:そう、で、読んだときにすぐに日本のある作家のことを思いだした。

医務:誰?

団長:ああこれだな、と、宮沢賢治だと。

医務宮沢賢治か、なんとなくそう言われると。同じカテゴリーだよね。

団長:物語の構造としては、救世主がいて、最終的に迫害されるんだけど、それって、そういうパターンは世界的にたくさんあるんだけども、なんで宮沢賢治かというと……あるんですよ、『かもめのジョナサン』読めば、別に読まなくても五木寛之の後書き読めば、すごいわかりやすく書かれてて、村上龍の後書きはね、なんかこう、この人解説は下手くそだな(笑)

書記:欲言うともっとこう、書誌的な情報も書いておいてくれるとありがたかったですけど(笑)

団長:まあ、『かもめのジョナサン』は訳しにくい小説だと思う。

医務:書記さんは好きなんじゃない、けっこう、海外の作品も読んでらっしゃるし。

書記リチャード・バックは今回初めて読みましたよ。

団長:気になったのは、宮崎駿ももう、おかしいくらい飛行機の詳細について詳しいし、やっぱり戦争の痕跡というのが露骨に出てくる作家でもあって、さっきの違和感というのは、じつは戦争だったんだよね、飛行機に乗ってる人たちが出てきて、技術で食ってくでしょう、たとえばイーストウッドの映画でもさ、『スペースカウボーイ』では農場で飛行機を乗りまわしてるおじさまたちが出てくるんだけど、ベトナム戦争を経験してる世代で、飛行機が出てくると戦争のにおいがともなってくるというのがあって、でも『イリュージョン』ではそうした戦争のにおいがない、ないというのがすごく気になって、なんだろうなと思った。そのへんが宮沢賢治に近いというのもあるんだけど、宮沢賢治は亡くなったのが1930年代だから間だけど、『イリュージョン』が発表されたのは1970年代でしょう、復興文化華やかなりし頃だよね、60年代の革命があって、世界的に闘争の時代に戦争のにおいがしないというのがまず気になって、執筆当時はきっとベトナム戦争の記憶もまだ濃い時期なのに、アメリカの二人の男が飛行機で気ままに旅してて、一人は異能を持った存在でしょう、それで最終的に彼が排除される話だけど、宮沢賢治の作品でいうと、『よだかの星』というのがあって、鳥の社会の中で嫌われているよだかという存在が星になるという話だけど、要は共同体の外に爪弾きにされて、最終的には英雄になる、ただ『イリュージョン』の場合は最後、ドンが殺されてしまうんだけど、その描写だけテイストを変えたなという感じがあって、それまでイリュージョンだイリュージョンだと言ってて、死をどうやって描くのかと思ってたら、そこはリアルに描いたんだよね。最後は身体性をワッと出して、そう、《まるで爆撃を受けたようだった。体の半分はグチャグチャに千切れた皮と布と肉に被われた、赤く湿った塊になっていた》、けっこうね、このへんは生々しく書いているなと、強いて言えばこのあたりが戦争なのか。

書記:『かもめのジョナサン』の方には生々しい、残酷な場面はないんですか?

団長:『かもめのジョナサン』の方が宮沢賢治の『よだかの星』の構造に似てて、最後は天上に行ってしまう、ジョナサンも行ってしまう、五木寛之が感じてた違和感ってのが、自分が元いた鳥の集団をジョナサンは低く見ている、自分がそこから爪弾きにされて、天上の世界に行って、そこにはある程度仲間がエリート集団みたいな感じでいるんだよね、でもぼくはあの人たちを救わなきゃいけないという話をして戻っていくんだよね、もってまわったサイクル、遠まわしに自分が元いた場所を否定している、だから最後までそこには戻りきれないんだよね、どうしても上へ上へと行ってしまう、そういう部分でも宮沢賢治的だし、それから付け加えると、性的な欲望がカットされている。『イリュージョン』ではリチャードがちょっとエッチな夢を見たりするんだけど、すんでのところで止められてしまう、そのへんが不思議な感じがしていたんだけど、フェミニズムとか精神分析に詳しい人ならそれなりの読み方ができるんだろうけども、宮沢賢治もやっぱり性的な要素は排除されていて、代わりに植物の種が散乱するイメージとか別な形で持ってくるんだけど、『かもめのジョナサン』もしつこいくらい上昇志向で、かなり露骨に出てるんだよね、でも『イリュージョン』はちょっと違った要素も見えたんだよ。

書記:『かもめのジョナサン』の登場人物はぜんぶ鳥ですか?

団長:そう、鳥。

書記:『イリュージョン』はその鳥を人に置き換えたイメージですかね、グロテスクなところもあまり出てこない?

団長:ただ『イリュージョン』は、最後ドンがしっかり死ぬというところが大きくて、リチャードはおそらくドンのようにはなれないし、ドンを撃ち殺した青年(ディック)も、「連れてってくれ」と言うけれど、やっぱり彼も、行けないんだよね。逃げだしちゃうし。

書記:ではディックは群衆から完全に逃げることはできない?

団長:え?

書記:(ディックを)群衆から逃げさせる、離れさせるためにドンがあえて撃たれたとしたら。

団長:そういう意味か。というか、ドンのようには結局、誰もなれない。だから見習いとしてリチャードを選ぶけど、彼もドンにはなれない。『かもめのジョナサン』も天上の世界に行って、似たようなエリートのかもめがいっぱいいて、で、そこでもやっぱり馴染めないんだよね、そこにいる長老のかもめがさらに上のものに認められないかぎり存在意義がなくなっちゃうんだよ、だからこの小説の構造はどんどん上に行くしかないような、でも行きついたところで下にいく、上下の動きしかないのは『よだかの星』の方法と一緒なんだよね。

書記:結局、ジョナサンは死ぬんですか。

団長:最後ね、もう教え子を作って、教え子のかもめが壁に激突してたしか死ぬんだよね、でも別の世界に転移する。そのへんの構造も『イリュージョン』の最後と一緒、ドンは死ぬんだけど……

書記:夢の世界で生き返る。

団長:うん。

医務:なるほどね。

団長:(喫茶店店長に)すみません!

(某喫茶店)店長:……

団長:すみませーん……

店長:あ、はっ!

団長ブレンド(お代わり)下さい。

 店長、テーブルにきて未開封のフレッシュを指しーー

店長:何も使わないですか?

団長:スプーンとか、うん、使わない。

店長:はい。

 店長、空のコーヒーカップを持ってキッチンに戻る。

団長:ドンが奇跡を起こした瞬間にとんでもないことが起こって、一回リチャードは逃げるんだよね。まともな反応だと思うんだけど、だから、裏切るならリチャードなのかなと思うんだけども、違うんだよな。リチャードがやっぱり君にはついていけないっていう展開だったらどうだろう……

書記:一回離れたときもドンをどこか心待ちにしていたね。

医務:たしかに。

団長:ディックを一緒に連れてけばいいじゃんて思う。『かもめのジョナサン』は連れていくんだよね。

書記:弟子として。

団長:弟子として。そういう連れ添いが『イリュージョン』にはないんだよね。

書記:ディックはあくまで群衆の一人として描きたかったのか。

団長:まあそこが圧倒的に違うよね、『かもめのジョナサン』と『イリュージョン』では。結局一人で、理解者いないんだよね。リチャードだって優秀な生徒と言われながら、最後までとんちんかんなことして、救世主にはならないわけでしょう。

医務:完璧にはね。

団長:うん。で、最後の締め方としてはドンがディックに撃たれて、それで、人間らしく死んで終わるっていうやり方もあるんだけど、リチャード・バックはそれができなくて、死を超越したいんだよね。かといって、超越した救世主と一緒に行く人間を描くこともできなかった。ディックを連れていって、リチャードだけ取り残される悲しさを描いて終わりでもよかったけど、それもしないし、変な作家だな。

書記:ディックはドンを尊敬しているじゃないですか、その尊敬がドンにとっては鬱陶しかったんじゃないかな。

団長:うん、ディックは狂信者みたいな要素はあったよね。

書記:リチャードは尊敬はしてなくて、そこがドンにとっては気安かったんじゃないかな。ディックはやっぱり群衆の一人としてあって、そうすると群衆は、ユダ(裏切り)の象徴としての群衆だったんじゃないかな、裏切り者がいるとしたらこの物語では(ドンとリチャードを除く)全員にその資格がある。ディックはただ、その中の一人でしかない。

団長:そうすると、リチャードはどういう位置づけなんだろう。

書記:リチャードこそ救世主なんじゃないかと。入門書の最後のページにあるように現実はイリュージョン、すべて反転できて、リチャードがドンを「救世主」として創造した、とも読めます。

団長:うん、ドンの方が救われてるもんね。

医務:なるほどね。

書記:救世主を創造(外部化)したのは、リチャードは結局、自分のことをよりよく知るためだったんじゃないか、哲学書的にいえば。

団長:そうやって読むと、武田泰淳の「わが子キリスト」という話に近づく。反転するんだよね、キリストと民衆の関係が。民衆というか、キリストの実の親がでてきて、ローマの兵士なんだけど、最終的には実の親がキリストになっていく。

医務:まあ、『イリュージョン』のような本は、これっていう読み方はないから、いろんな解釈ができておもしろいよね。

感想文① 「飛行機へのあこがれ」
寄稿者:画家
ピクルス団での次回テーマの著作が、リチャード・バックのイリュージョンである事を知りましたので、好きな事を書かせてもらいました。
図書館で2冊(「イリュージョン」と「かもめのジョナサン」)を借りてみました。かもめのジョナサンは耳に聞き覚えのあるタイトルですが、読んだことはありません。
作者のリチャード・バックという作家が、飛行家であることをここで知りました。私の中では飛行機についての憧れが、さまざまな著作・作家を関連づけてくれます。サン=テグジュペリもその一人です。書記さんとの小旅行の帰途に寄った東北道でのPAで、アメリカのP38という飛行機の写真の様なものがありましたね。この機体に乗って偵察に出た事で最後を迎えたと言われています。なんでも、操縦が難しく彼の年齢・経験では第一線での参戦は無理で、それでも現場ー戦場へ身を投じる熱意で登乗して偵察飛行に向かった事が、最後と言われています。
他にも興味のある飛行家がいます。リンドバーグなどはあまりにも有名な飛行家でしょうが、著作などは読んでません、むしろ同じアメリカの女流飛行家のアメリア・イアハートが好きです。向上心や挑戦して止まない勇気などもですが、単純ですが、どこかボーイッシュな容姿が気に入っています。知的でチャーミングな女性と言う表現で往時から人気があった、とか。映画にもなっていて彼女の足跡をテーマにした映画DVDも買い求めました。飛行機ープロペラ機を見ると何か……どこか心動かされるものがあります。彼女は1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦して、同年7月上旬に、南太平洋において行方不明となりました。その後アメリカ海軍と大日本帝国かいぐんにより大規模な捜索が行われても、機体の残骸や遺体が発見されなかったことから、イアハートの失踪が「ミステリー」として取り上げられることになったそうです。私は、飛行機と言ってもプロペラ機に限った時代のエンジン音などにそそられます。
他にもジブリの「風立ちぬ」、これはゼロ戦の設計者の堀越二郎と作家の堀辰雄を題材にしたようなアニメですが、気に入った作品です。
【2022/05/25】

感想文② 「イリュージョンについて」
寄稿者:画家
この作品を読んだ感想は、哲学的な作品だと思った事です。何かを考えさせる、と言うより、何かを伝え感じさせる事が作者の意図する目的なのでしょうが、それが何なのか分からない(ストンと腑に落ちるように伝わらないーーこれは私の想像力の乏しさ)、それで、つまり哲学的という都合のいい表現になってくるのだと思います。原書でも同様なのでしょうが、太字のアフォリズム風の言葉に続いて展開される語り・物語は、それこそがイリュウジョンというタイトルとおり、日々出会う出来事や世界が錯覚・幻覚なのではないか、総てがそうである事に囲まれて、気が付く事無く意識する事無く、人は生きており、日々の世界に出会っている、という事なのでしょうか……。
話は逸れるかもしれません。作中たびたび登場する「広い牧草地・ほし草畑」について、あまりにも広大で茫漠な、そうした空間について、私の心に何かを思い起こさせます。
地平線まで果てしもなく続くのではないかと思わせる、トウモロコシ畑などと同様に(映画などで見たものですが)どこか特定できない、降り立った地は夢の続きの地で、そこに迷い込んだ様な印象を抱かせるものです。
日本では体験することが出来ない、なじまない光景でしょうが、青々とした、視線が終点を理解できる箱庭の様な日本の風土の田んぼの中は、広大さのイメージとはほど遠いものです。
きっと、舞い降りた地が、ただただ果てしなく続く広大な空間の中で、自分の存在に不安になり、今の自分とは何者? どこかに居た自分は今どこに居てどこへ行こうとしているのか……そんな不安を誘う命題が頭をもたげるのではないかと思うのです。エンジン音とプロペラに紛れて広大な畑に舞い降りるだけで、自分を取り囲む世界が、錯覚や幻覚の世界に変異する、そんな錯覚に陥るのではないか? そしてそれは、自分が承認を与えたマジックの世界の中で、自分が主人公になる事で、一種、日常からの解放感を味わう事になるのではないか、そんな事を考えてしまいます。
【2022/07/28】

読書会総括
割愛

編集後記
後記に代えて、今回は引用で締めくくることをお許し下さい。
《モノには視界から消えることでそれ自体が変化する性質がある。この意味で、モノは私たちを欺いて、幻想(イリュージョン)を作り出す。だが、まさにこの意味で、モノはモノ自体に忠実なのだから、私たちはーーモノの緻密な細部や正確な外観を通じて、モノの外観とその連鎖がもたらす官能的な幻想を通じてーーモノに対して忠実になる必要がある。なぜなら、幻想は現実と対立しないのだから。幻想とは現実の消滅の最初の記号を包み込む、もっと微妙なもうひとつの現実のことなのである。》【ジャン・ボードリヤール

次回、冬の読書会はレイ・ブラッドベリ著『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF)を予定しております。奇しくもリチャード・バックと同郷の作家になりました。推薦者は私、書記です。こうご期待下さい。