田中兆子「片脚」読書会2023年4月

読書会概要
日時 2023年4月8日(土)19:00〜22:00
場所 東京都内 某居酒屋
参加者 団長 医務 書記
課題本 田中兆子著 「片脚」
     短編集『私のことならほっといて』
              (新潮文庫)所収
課題本推薦者 団長

田中 兆子(たなか ちょうこ)
1964年富山県出身の小説家。
2011年短編「べしみ」で新潮社主催の【女による女のためのR−18文学賞】を受賞。
2014年、同作が収録された短編集『甘いお菓子は食べません』が新潮社より刊行、デビュー作になる。
2019年長編『徴産制』が【センス・オブ・ジェンダー賞】を受賞。
同年6月、短編集『私のことならほっといて』が新潮社より刊行。
現代女性の孤独と官能的欲望をテーマに、現実的手法と真摯な姿勢で描かれた物語世界の緻密さに引き込まれる一般読者は多く、一方でフェミニズム批評的な視座から好評を得ている作家である。

「片脚」内容紹介
家に帰ると《私》のベッドの上に夫の左脚があった。夫は今日、葬式の後に火葬場で焼かれた。
崖の下のおばさまに相談すると、おばさまは「火葬屋さんからの厚意だから、ありがたく受け取っておけばいい」と云い、「うちは右脚だったな」と笑う。おばさまは村の者から《ママのばば》と呼ばれていた。《ママ》とは崖のことをいうのだそうだ。村では同じよそ者の《私》のことを何かと気にかけてくれている。
ベッドに片脚を置いておくのも気ぶっせいで、夫のベッドに移す。だが翌朝目覚めると、夫の片脚はずうずうしくも《私》のベッドにどってりと横になっていた。かっとなった《私》は片脚にベッド・カバアを巻きつけ、玄関脇の納戸に突っ込む。子どもの頃、お仕置きとして施設の職員に物置へ閉じ込められ、泣いて暴れたことを《私》は思いだした。だが、納戸の片脚はことりとも動かない。
車で街に出る。若い男を物色して村に戻ると、玄関の上がりかまちで夫の片脚が《私》を出迎えた。それは仁王立ちして《私》を責めているようだった。
ああ、うっとうしい。もう我慢できない。
「もし、村の未亡人に再婚がきまったらーー」と、《私》は床に臥すおばさまの耳もとに尋ねる。「その方は夫の片脚をどうしていたのでしょう?」
「山へ捨てる」と、おばさま。
「山って、どこですか」村には山がたくさんある。
「あんたは……捨てられないよ」おばさまはそう云うとふうと一息ついて、目を閉じてしまう。
《私》はタオルでくるんだ夫の片脚をかかえ、おだやかな天気の日、夜の三時半に家を出た。

読書会経過

団長:田中兆子はSFっぽかったり純文学っぽかったりする作品をいっぱい書いてて、この人自身がけっして若い人ではなくて64年生まれだから、まあちょっと古いタイプの小説で、『徴産制』っていう長編小説を手に取ってはじめてこの人の小説を知って、買ってぜんぶは読んではないんだけども、人口減少を解決するために男性をむりやり性転換させて人口を増やそうとする政策を日本がするっていう設定で、けっこうリアルな話でもあって、でもそういう設定だけの人だったら読まなかったと思うんだけど、文体を見ると、なんていうかな、女性作家の切れ味鋭いというか、キレのある文体だし、登場人物の設定が作者より古い世代、たぶん著者にとっては親の世代の話を書いてるよねきっと。「片脚」で言ったら、戦争孤児だった女性が主人公だし、現代的なテーマで時事ネタをうまくSFっぽく書く器用さはありつつ、でもキャラクターの設定は1945年から5年10年のあいだ幼少期を過ごした人の設定になっていて、他の短編もだいたいそんな感じだし、だからちょっと不思議な人だなというのはあった。

書記:そういえば田中さんが実際読んできたという作家がそのへんの、いわゆる戦争孤児の当事者だったとしてもおかしくない世代の作家ですね、古井由吉金井美恵子などはおそらく。

団長:戦争孤児というものに対するこだわりはあるかもしれない。本人は64年、はじめて東京でオリンピックが開かれた年の生まれで、高度経済成長期に幼少期を過ごしているような世代だから、だから親の世代を作品に書きたいというのはあるんだろうな。「片脚」では、おばさまっていう主人公の唯一の理解者が出てくるけど、それもけっして親ではない。

書記:この「片脚」にしても、短編集を読むかぎりではたぶん芥川賞の候補にはなりにくいような作品を書く人みたいですね。

団長:ならないと思う。わりと計算高さもあるから、純文学の枠の中だけで書いてるような感じではない。

書記:どちらかというと直木賞かな。

団長:獲って直木賞……直木賞はまだ獲ってないのか。なんかあまり聞いたことないような文学賞獲ってるね。

書記:新潮社の女による女のためのR−18文学賞を獲ってはじめて短編が評価されて、そのあと『徴産制』でセンスオブジェンダー賞を獲ってて、どちらの賞の名前からもフェミニズムの立場から一定の評価を受けている印象です。

団長:そうそう、そっちの方かもしれない。でもそれ知ってて今回この作品を選んだわけじゃないんだけどね。

医務:(団長さんが)選ばなそうな本だから意外性があった。勧められなかったらたぶん一生読まなかったかもしれない。

書記:はじめは蓮實重彦にしようとしてましたよね。

団長:そう『伯爵夫人』、あれはもうなんか下ネタ多すぎて、さすがにやめた(笑。でも『伯爵夫人』を、あれはこういう作品ですよって言ってる人はいないから、やっておけば話のネタくらいにはなるだろうなとは思った。

書記:(『伯爵夫人』は)小説ですか?

団長:小説です。ほんと面白い。

書記:(蓮實重彦は)評論活動の方が多い人ですよね。

団長:日本文学の研究者からはもの凄い嫌われてて、まず蓮實文体が嫌われるんですよね。

書記:独特なんですか。

団長:他の研究者たちの言っていることぜんぶすかされるっていうか、馬鹿にされて、それが(他の研究者たちは)気に食わないんだと思う。まあ『伯爵夫人』はちょっとやめて、同じ傾向ではあるけどももう少し控えた作品という意味で今回「片脚」を選んだ節はある。解説を川上弘美が書いてて、それなりに褒めててーー。

書記:絶賛してますね。

団長:まあ川上弘美は褒めるだろうな、多和田葉子も褒めるだろうな。

書記:(川上弘美は)どっかから褒めろって圧力がかかってるんじゃないかってくらいあからさまに褒めてますね。

医務:でも解説って褒めるんじゃないの? そういうものではない?

書記:どうでしょう、もちろん褒める人もいるだろうけど。

医務:一概にそうとは言えないんだ。

団長川上弘美が解説のおわりの方で言っているけど、現在エロスが書きにくい状況になってるというのは、ちょっと考えてもいいのかな。

書記:作家側の方での息づまりはありそうですよね、とくに男性が書くエロスには。川端康成の短編「片腕」を今回読み直したんですよ、田中さんが「片脚」を書く上で触発されたらしいということで。

医務:「片腕」ってどういう話なんですか?

団長:捨てる話っすか?

書記:わかりやすく捨てに行くって話ではなくて、ある孤独な男が少女から右腕を貸してもらって一晩添い寝するってだけの短い話なんですけども、最終的には自分の右腕とつけ替えてしまうんです。つけ替えた後で血が混じり合うっていうか、自分の血が少女の腕に入ってしまって、そのことで腕を返すときに何か支障が起こらないか、つけ替えた後でそういった考えが起こる。現実には起こらないことだけども、仮にそういったことが現実に起こったとしたらたぶん、つけ替える前にはそういう発想にはいたらないだろうしーー

団長:違いを強調してるっていうか、少女と自分とがぜんぜん違うものだと。

書記:違いによって性的に反応する……そう、そのへんになにか限界というか、境界がある。

団長:「片脚」ではかつて捨てられた自分と片脚の状況とが重なる。捨てられる片脚ってのが自分のことだって気づくところで物語がおわる。

書記:感動的でしたよ。

団長:そう、ただ凄いなって思ったのはその少し前、山に入っていくうちに片脚が、赤んぼうのように思えてきて、この赤んぼうを捨てなきゃというのと、温めなきゃというのとが矛盾を感じさせないこととしておこなわれる。最終的に片脚は捨てられないんだけども、捨てるものと捨てられるものとが同じなんだっていうところでピタッと一致する。川端の「片腕」はたぶんまったく違って、腕と自分とが違っているから快いんだと。

書記:「片脚」はだから、男の片脚でなくてもよかったかもしれない。

団長:まあ、片脚が最終的には赤んぼうになって、そこにかつての自分を投影して、おばさまの言ってた《あなたは捨てられない》というダブル・ミーニング、あなたは片脚を捨てることができない、というのと、あなたはもう誰にも捨てられない、という同義性に気づいて……うまくできた小説なんだけど、まあ、捨てちゃう人は捨てちゃうよね。

医務:わたし捨てちゃうと思う。

書記:え、なんでですか?

医務:気持ち悪いから。

書記:毛むくじゃらだからですか?

医務:そう。だってぜんぜん共感できないっていうか、もうその感触だけが想像されて、感情移入ができないっていうか、ごめんなさい洞察力とかなくて、感覚がなまなましく煽られて、それをこう、愛おしいとか、そういうふうに感じられるところまでいけなかった。

書記:そこまでなまなましく感じさせるっていう部分では成功してるんでしょうね。

団長:そこ大事なところで、だってありえないくらい気持ち悪いしーー

医務:看護師やってるからふだん人の体を見る機会が多くて、だからリアルなものとして想像しやすいっていうのはあったと思う。そうでなければフィクションとして想像できたかもしれない。

団長:そうやって思わせるのも小説としてはうまくいってて、わざとそう思わせるように書いてるし、だからなおさら最後のオチがうまくいきすぎてて、逆に違和感あるくらい。

医務:わたしこれ、最後どうなったのかよくわからなくてーー

書記:たしかに具体的にはどこにも着地はしてませんよね。

医務:こういう感覚って男性と女性とでやっぱり違うのかな。

団長:いや気持ち悪いと思う。読んでて、やっぱり気持ちのいい小説ではない。

医務:じゃあさ、康成の方はどうなの?

団長:「片腕」の方はまだね。おじさんと距離が設けられてるから。

書記:まあでもこっち(「片腕」)のおじさんのエロティシズムには、個人的には共感できないですね。少女の片腕のなにが快いのか……描写のなまなましさはわかるんですけども。

団長:やっぱりふつうに読んでたら、捨てるでしょっていう反応が健全だよ。

某居酒屋女性スタッフ:失礼しまーす。マグロのお造りお一つ……

書記:(きた!)

某居酒屋女性スタッフ:あとお済みのお皿やグラスありましたらおさげしまーす。

医務:ありがとう。

団長:岩波の新書で2010年代以降〈介護小説〉っていうのがいっぱいでてきたといわれてて、潜在的には前からあったんだけども、遡ると深沢七郎の「楢山節考」、生産性のなくなった老人は山に捨てるっていうので、ただあの話の中では捨てても葬式をあげてるのに戻ってきて、戻ってきたじいさんばあさんを家に入れないとかすごいなまなましい話があって、介護ってめちゃくちゃなまなましい、というのが、深沢七郎があげたテーマだと思うんですけど、それが2010年代以降、高齢者がいっぱいでてきて、法整備もされてきて、まあ、書きやすくなったのか、モブ・ノリオの『介護入門』って芥川賞を受賞した作品があって、無職の青年が薬やりながらおばあちゃんの介護をするっていう話でーー

医務:薬って?

団長大麻

書記:うまいなあ。

団長:最近のヤングケアラーの問題にも繋がっていく。自分の考えや思いをうまく言語化できるようになる前の若い子たちも自分の時間をぜんぶ奪われて介護しなきゃいけない、そこで捨てる決断に迫られるような状況というのがでてくるだろうけども、じゃあ捨てないのはなぜかというと、まあその理由はないんだけども、唯一残っている美徳のようなものが、この小説(「片脚」)のラストなんじゃないかな、捨てるものは捨てられる、というような強迫観念。姥捨の構造があって、最初は川に捨てに行ったらもの凄い抵抗されて引き返す、夫は生前山の仕事をしてて、それで山に捨てに行くときにはそんなに暴れない、せめて山に捨てるんだったら、夫が所有していた山がいいよねと考えてその山に行くんだけども、あとおばさまが、「私」が相談したときに「山に捨てる」と言われて、もうはっきり柳田國男が前提にあって、柳田は山の話を集めて、だいたい山にはおかしな人がいるというのがわかって、日本の原住民なんだろうけども、それが変化していって妖怪という形になっていく、そうした話を柳田は途中からぜんぶ抑圧してしまって、山は先祖がいるところだよという話にすり替えてしまう、「片脚」はそれともろに重なるところがあるんだよ。山に行けば、自分のことを見守ってくれる先祖がいて、自分のことを支えてくれる。山に行けば、間違いない。でも柳田が抑圧する前の山っていうのは、もっとぜんぜん親しみのない、よくわからない人たちがいる。川に捨てると海に流れて自分の技術がなくなるという恐怖があるから、片脚は暴れる、でも山に捨てに行かれるんだったらまあいいかみたいな、最後の方は「楢山節考」の状況と重なってて、雪の降る中倒れて、もう死ぬんじゃないかってときに片脚の皮膚と自分の皮膚を重ね合わせるというありえない幻想を用意して、そこにかつて捨てられた自分を重ねて、かなりの力技でラストに持っていく。そのへんはうまいなと思った。

医務:おばさまの脚はどうなったんだっけ。

団長:おばさまの脚は性的な対象としての脚、男性器が付いている、あれは完全に消費される脚で、おばさま自身どこに片付けたっけと言うくらいで、だから「あんたは捨てられないよ」っておばさまが言うのは、おばさまの持ってた脚と、「私」の(男性器の付いていない)脚とが違うから。

医務:そこまで深読みできなかった、描写がなまなましくて。

団長:健全ですよ。

編集後記
読書会経過は読書会で実際に話されたことの縮小版ながら、話の流れやまとまりを考慮したり、読みづらい部分を整えたりしながら再構成していく中で、恣意的な範囲ではありますけども、一つの読書会の記録として過不足のない体裁に仕上げているつもりではいます。今回は田中兆子さんの「片脚」という短編小説でしたが、毎回のごとく、ピクルス騎士団団長の読みの広さ、深さには唸らされました。同時に自分の読みの狭さ、浅さには我ながら呆れるほどで、どこかで「書ければいい」、「読むのは二の次」というような考えが自分の中にくすぶっていて、そうした部分で少なからず逃げ道を作っているような甘さが今回は痛烈に響いて、あとで首がもげるほど反省してしまいました。誰か私の首から上をレンタルしていただけるようなお方はいませんか。また首から下に関しましても、自力で出来ることはほとんどないといっても過言ではありませんけども、ご希望の方がおりましたらぜひ共にハイキングにでも参りましょう! 柳田國男ではありませんけども、私も幼少期に身近な大人たちが語る奇怪な言い伝えに胸躍らせた山の一つや二つ驚くほど鮮明に覚えておりますので、うまくいけばお連れしてさしあげることができるかと思います。
「片脚」は短い作品ながら、ジェンダーの問題であったり、介護とのつながりであったりと、多様な角度で切り取ることができる、潜在的に広い地平と社会性を有した小説であると言うことができそうです。

[書記]


次回読書会は8月を予定しています。
課題本は、今月刊行予定の村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』です。
推薦者は医務さんです。ご期待ください。

ピクルス騎士団・団長
(またの名を「サンボン」さん)の真実がここにあるかもしれない
https://ameblo.jp/hankakusendenena/
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