呉明益「自転車泥棒」読書会2022年4月 

読書会概要
日時
 2022年4月16日(土)17時30分〜19時50分
場所 東京都内 某喫茶店
参加者 団長 書記
課題本 呉 明益 著『自転車泥棒 推薦者:団長

書誌情報
原著は2015年6月台湾の麥田出版から刊行、邦訳は2018年11月に文藝春秋から刊行されました。明益めいえきの著書としては2015年の『歩道橋の魔術師』(白水社)に次ぐ2冊目の邦訳です。

天野健太郎 訳
『歩道橋の魔術師』に続き、本書の訳出も手がけた天野健太郎さんは、呉さんと同じ1971年生まれ。観光分野における人気とは対照的に、従来の日本ではほとんど市場がなかった台湾文学を2010年代より広く紹介、年齢も若く、新しい時代の開拓者としてこれからさらなる活躍が期待されましたが、本書が刊行されて数日後に惜しくも逝去されました。

内容紹介
1992年、ぼくら家族の生活の拠り所だった中華商場が解体された翌日、父が失踪した。1台の自転車とともに。
主人公の「ぼく」は、小説家兼ヴィンテージ自転車のコレクターです。父とともに消えた自転車の行方を追い、すでに20年以上が経過しています。この物語はすべて、「ぼく」がコレクター仲間を介して得た人脈の果てに、消えた父の自転車にたどりつくまでのプロセスと動向に纏わります。
家族の歴史に台湾の自転車史が伴奏し、台湾の自転車史が家族の歴史を伴奏する。台湾原住民族のカメラマンや蝶の工芸家を母に持つ女性、第2次大戦下にマレー半島で展開された自転車部隊、ミャンマーで日本軍に接収され中国へ、そして中国から台湾へと渡り台北の動物園で生涯を終えたゾウなど、いくつものエピソードや人物、動物たちが樹木の枝葉のように結びつき、やがてぼくらを幹のてっぺんにある「自転車」へと導いていく。

台北

読書会報告

1.フェティッシュ

団長:しんどい小説だった。『眠りの航路』も読んだけどやっぱり……

書記:そちらは未読ですけど、日本が舞台の話?

団長:『自動車泥棒』では消息を絶ってるお父さんの話で、戦中、日本で少年工として働いてる。

書記:レビューを見ると、登場人物として三島由紀夫が出てくるとか。

団長:もろ出てくる。もろ出てきて、やっぱり三島由紀夫を意識してるんだな。三島由紀夫のマニアには外せない。

書記:『眠りの航路』ではどうかわかりませんけど、『自動車泥棒』はまず情報量が多いというか、どれも自転車に代わってこの小説の主題になりえるようなエピソードが連なり絡みあいしながら一つの物語になっていく。小説として成功しているかどうかは別に。

団長:たぶん著者も、そのへんは全然まとめようとして書いていないんじゃないか。この『眠りの航路』って、『自転車泥棒』にも言及はあったけど、時系列とか微妙にずれてるし、合わせようとしていないし、あきらかに『自転車泥棒』の空白を『眠りの航路』のほうで充満させている――

店員:お待たせしましたぁ。アメリカンのお客さま――

団長:はい。

店員:失礼します(団長の右斜め前にアメリカン・コーヒーを置く)。失礼します(書記の左斜め前にブレンド・コーヒーを置く)。ごゆっくりどうぞぉ。

書記:ありがとう。
   眠りの航路も多視点ですか?

団長:複雑ですね。でも視点の交じりあいで言えば『自転車泥棒』のほうがすごい。

書記:フォーカスの動きが大きいし、激しいですね。後記の「哀悼さえ許されぬ時代を」に書かれてありますけど、この小説に関わりある歴史として、第二次世界大戦史、台湾史、台湾の自転車史、動物園史、チョウの工芸史まで挙げられてます。

団長:『自転車泥棒』ではフェティッシュなものの捉え方が新しいというか、『眠りの航路』にはあまりなくて、コレクターたちの自転車へのこだわり、レストアとか、フェティッシュな感性を軸にしてさまざまな記憶を立ちあげていく。自転車を基点にかつての父の記憶を復元しようとするんだけど、完全にはうまくいかなくて、でもちょっとずつ詰めあわせていって、全体のまとまりに欠ける部分は狙われていないけども、そうした記憶の構築の仕方は『自転車泥棒』のすごくうまくいっているところかな。

2.自転車泥棒

団長自転車泥棒というタイトルね……ヴィットリオ・デ・シーカの映画からとられてるそうだけど。

書記:戦後すぐのイタリアではやった「ネオリアリズモ」と呼ばれる作品の一つですね。

団長:自転車を探しまわる場面は、たしかにそのまま。

書記ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』は見てますか?

団長:前に見てる。
   駅前のTSUTAYAがなくなっちゃったせいで他の映画は最近なかなか。

書記:DVD借りて見る習慣がなくなりましたね。

団長:そう、店行ってぶらぶらできなくなっちゃった。

書記レンタルビデオ店でぶらぶらするの、いい時間だったんですけどね。

団長:いい時間だった、ほんとに。

3.『自転車泥棒』の「読者」

書記:『自転車泥棒』はとにかくいろんな切り口を持つ作品で、結局何が言いたいのか的を絞ってね、受け取ろうとするとすごく難しいんですけど、ラストに読者へのメッセージともとれる文章があって、ちょっと読んでみます。

――てっきり、この物語を旅するサイクリストは自分ひとりだと思っていた。でも読者のみなさんがこの小説を開いて、ここまで読み進めてくれたおかげで、無限にある道を互いに気づかずに走っているサイクリストがほかにもたくさんいて、見えない力によって、神秘的で巨大な歴史の流れに引き寄せられ、この旅路をともに走っていることを知った。
自転車泥棒』(文春文庫)457p

――自転車を探すうち、意外な時間の流れに巻き込まれてしまう物語を通して、読者のみなさんが本のなかの人物と心をふれあわせ、ペダルを踏むリズムや汗の臭い、乱れる呼吸、涙を流す(あるいは流さない)ほどの悲しみを、互いに感じとってほしい。
自転車泥棒』(文春文庫)457-458p

4.輻輳する世界Ⅰ

書記:登場人物ではありませんけど、作中、何人もの実在する人物の名前が登場しています。たとえば(文春文庫)84ページに、アッバス・キアロスタミの名前が見られます。さらっとした書かれ方で、内容には直接関わってきません。キアロスタミは個人的に思い入れのある映画監督の一人なので印象に残りましたけど。

団長:この『自転車泥棒』も映画化してほしいよな、それこそキアロスタミのような監督に。『眠りの航路』は父の記憶と私の意識が交互に書かれてて、村上春樹の「鼠」と「僕」との関係に代表されるような二つの世界が重なっていくカチッとした構造があって、それでも脱線するんだけど、『自転車泥棒」のほうがすごい角度で、いろんな事がわっと入ってきて……

書記:悪い言い方すると、散乱している。

団長:散乱してる。だから映画作りならそのへんのいい加減さが許されるというか、何やってもいい作品になりそう、逆に難しいかもしれないけど、映画はあきらかに意識してますね。

5.「英霊」の表象

書記:身近に台湾嫌いな人いないですよ、観光地としての台湾。定期的に行きたいという方が多いです。

団長:学生時代に会った留学生で、山東省とか四川とか大陸からきた学生と、台湾からきた学生とで全然違くて、圧倒的に感覚が近いんですよ、台湾のほうが。沖縄のひめゆりの塔に台湾の学生が行って、沖縄の悲劇を知ると、「ああ、うちらもなぁ……」とか、そういう感覚になったりしたとか、台湾の歴史ね……

書記:日本と台湾との歴史的な関わりもやっぱり無視できないですね。

団長:台湾の作家がこうやって三島由紀夫を引用して三島由紀夫のイメージを斬新な、思いもよらない形で書いているところは、けっこう……『眠りの航路』で《平岡君》という形で出てくるんだけど、『眠りの航路』のほうでは日本文学で語り継がれてる三島由紀夫のイメージに近くて、ちょろっと三島の神話を崩す語りもされてるんだけど、でもそこはやっぱり『自転車泥棒』で、登場人物のアッバスとラオゾウとの話、ラオゾウの秘密に触れるくだりで、学校の地下に潜りにいくシーンがあるじゃないですか、潜った先で魚の群れがわっときたかと思ったら、それが人間みたいな魚人、よく見ると手がなかったりとか足がなかったりとか、そのシーンも完全に種明かししないで結局は終わって、アッバスが前にやっていた店が《鏡子の家》という三島の話がされた後に、こうしたシーンが展開されていって、この作品の中で三島の「英霊」の表象がすごく変な形でされる。それはやっぱり台湾の作家だからこそできるんじゃないか。この魚人といういわば水生動物と、後半出てくるチンパンジーやゾウは森の生物だけど、「英霊」が動物の身体を介して語られるのは今までなかった。そこが圧倒的に新しい。三島は戦後『英霊の聲』を書いてるじゃないですか、それとはまた別の、三島的じゃない形で「英霊の聲」を書いているんですよ。

6.村上春樹

団長:中国、台湾から日本文学を研究しにくる学生って、だいたい村上春樹で論文を書くんですよ。むこうに村上春樹みたいな作家っているの? って訊くと、まあ、何人か名前が挙がってきて……ぜんぜん知らないんだけど、でもやっぱり90年代後半から小説家としてデビューしてる人で、村上春樹を意識していない人はいないんだろうけども、『自転車泥棒』にも村上春樹を感じるんだよな。

書記:何かに先駆けて失われてしまっているもの、に対する感受性に共通点があるかもしれませんね。私は単純に、ゾウの話を「応答」として読んじゃうんですけど、何に対する応えかというと、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭ですね、

例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。

村上春樹風の歌を聴け』(講談社文庫)より

これも作中の語りなんですけど、作中で著者の「書くこと」に対する想いだったり、動機の表明がされる部分にも共通点は見られますね。

7.輻輳する世界Ⅱ

団長:そうなんだよな、村上春樹の名前を一言もださずに喚起させる。持ってくるのは映画監督の名前だったり、三島由紀夫は思いきり出しているけど……

書記:『自転車泥棒』の作中言及されていない人で、なおかつ実在する人物で、私のなかに盛大に喚起された人物がいます。ダイアン・アーバスという写真家です。『自転車泥棒』の登場人物のアッバスはカメラマンでした。アッバスという名前は別称ですが、名前や職業とはもっと別のつながりがあるように読めます。

団長ダイアン・アーバスという人は、戦場カメラマンですか?

書記アッバスのような戦場カメラマンではありません。独特のポートレートを撮っていたアメリカの女性で、ファッション雑誌が主戦場でした。何年か前にスーザン・ソンタグの『写真論』を読んだときにはじめてこういう写真家がいたことを私は知りましたけど、『写真論』では一つの章のほぼ全域がダイアン・アーバス論になっています。彼女の写真を特徴づけているのは後半生の主要な被写体だった「フリークス」と呼ばれる存在です。「フリークス」は肉体的、精神的に他者と著しく異なる者のことですが、アーバスは彼らとの撮影、一種独特な、危険な共同作業によってしだいに心を病み、最後はニューヨークの自宅のバスタブで手首を切って自殺したということです。『自転車泥棒』本文184ページでアッバスが主人公に対して語る「詩と写真の違い」のなかで、彼は言います。

カメラマンは撮影現場へ足を運ばねばならない。だから、多かれ少なかれその場所により、自分を変えられてしまう。
自転車泥棒』(文春文庫)184p

またアッバスは「鏡子の家」という喫茶店をはじめた理由として、

芸術とは最後は総じて利己的なものだ。それで他人の考えは変えられたかどうかはわからないが、少なくとも自分が変えられたかどうかは、自分がいちばんよく知っている。チェチェンに行ったあと、自分にこれ以上多くのものを見せるわけにはいかないと感じた。だからしばらく休んで、『鏡子の家』を始めることに決めた。

自転車泥棒』(文春文庫)185p

と話します。
こうしたところにつながりが見いだせるように思います。つまり……

団長アッバスの撮ってた写真というのは、

一部、不快感を呼び起こすイメージもあったはずだ。
自転車泥棒』(文春文庫)105p

というふうに紹介されてたから、どんな写真なのかなと思ったけど……わりとおぞましい写真なのかな……。

書記:ちなみにソンタグは『写真論』の中で戦争写真家についてちょっと言及しています。

戦争写真家は彼らが記録する死の活動に参加しないわけにはいかない。

スーザン・ソンタグ『写真論』より

8.時間

団長:あと、同じ場所をずっと撮りつづける。純粋に時間を撮ろうとしている。『自転車泥棒』は時間に対する意識というのが強くて、自転車であれば、復元は無理だと。復元したい衝動は強いけど、あきらめも片方にあって、復元していく過程で、時間の本質が見えてくる、再現しようとすればするほど別の側面が見えてくる、ほとんど捏造なのか、想像なのかわからない。最後に感動的な自転車の場面があるけど、母親の病室に、ぼくが自転車を病院の裏口から担いでいって、病室に兄貴がいて、兄貴は疲れて寝ていて、スタンドあげて漕いで、漕いでるところを認知症の母親が見て、父親がいる、と言う。それはもちろん明らかに幻ではあるんだけど、単純な再現ではないというところを、最後にバシッと持ってきてる。簡単にいえば和解がテーマで、家族的なロマンスにぎりぎり収めてる。それはアッバスも一緒で、あともう一つはアフンていう――

書記:蝶を使った工芸家の――

団長:そうそう。娘のサビナが主人公に小説を送ってくるわけですね、その小説も父と娘の話で、秘密を抱えている父というわけでもないでしょうけど、自転車に触れるということが父に触れるということなのかな、その路線はがっちりあって、しっかりしているから、7つの「ノート」で自転車の知識がわっとあってもうるさくならないというか、父と子どもの物語と密接に結びあう、あまりにぐちゃぐちゃしているから見えにくいんだけど、よく読むとね。母親がはじめて小さいときに何人かの子どもと、案山子の役割をしに田んぼに行って、その田んぼのなかに隠れて案山子を揺らして雀を追い払っているうちに寝ちゃって、気づいたら空襲になってて、それが最初の方のシーンで、はじめに読んだとき語りの視点がどこなのかさっぱりわからない、めまいがしちゃって、そう、

あの朝の情景を、ぼくは描かなければならない。
自転車泥棒』(文春文庫)11p

まず《あの朝》はじまって、すごい遠いところから何かわっと語って、どうやら漁村らしい、で、子どもがいて、一気に空襲があって、他の子どもたちはほとんど死んでいて、そばにあった自転車を乗ったことないはずなのに、なぜか乗って、何か霊感みたいなのが働いているのか、ぐちゃぐちゃだけれど、自転車と家族の物語が最後まで書かれていて、銀輪部隊で自転車をアッバスのお父さん、バスアが隠したのかな、隠された自転車が数年経って、根っこから木の成長と一緒にこう、生えてくる、それだけ切り取ると荒唐無稽の話になるけど、そうはならないのはちゃんと自転車と家族の物語ががっちりあって、そのへんは『自転車泥棒』のうまいところで。主人公のお父さんがムー隊長に渡した自転車が、最後に主人公の手もとに戻ってくる。銀輪部隊なんて聞いたことないし、日本の戦後に言及している人とか、戦後文学で銀輪部隊の存在に触れている人もいない。

9.鐵の馬

団長:銀輪部隊なんて聞いたことないし、日本の戦後に言及している人とか、戦後文学で銀輪部隊の存在に触れている人もいない。

書記:そういう存在がいたことは?

団長:いや、はじめて知りましたね。読んでて思ったのは、インパール作戦とかで軍馬は全員死ぬんですよ、食べられたりとかして、でもそうした記録はないんです、あの馬たちって全員名前が付けられてて、兵士と同じような身分で行ってて、兵士だったら靖国に英霊としてまつられることはあるけど、馬はそんなことなくて、記録がないんですよ、どの馬がどこで死んだかとか、それと同じで、自転車も、「鐵馬」じゃないですか、中国読みなのか台湾読みなのか、そのへんの関連も面白くて。馬には触れてないけど、自転車の記録を探るのはもっと難しいだろうし、銀輪部隊なんてはじめて知ったし、それをここまでしつこく――

書記:名前のある馬さえ消息がわからないのに、名前のない自転車の消息を探るって――

団長:昭和10年代にそうした小説は生産されてて、ただその馬たちが実際にどうしたのか、確かなことはわかってなくて、誰も関心ないのか。記憶の風化はもう何十年も前から言われてるけれど、戦争を語るのに小説としてこういうやり方もあるんだなと、うん。ただそうなんだよなぁ、やっぱり写真論から入ってく、明らかにこう、何か。

書記:まずとっかかりがなくて。私、自転車には興味ないし、動物もなぁってところで、写真からならまあ、何かたぐっていけそうな――

団長:写真は絶対ありますよ、キアロスタミもあると思うんだよなぁ……。

10.境界(Last)

書記:あと今回、(団長さんも面識のある)画家さんをお誘いしてたんですが、残念ながら仕事の関係で不参加になってしまったんですけど、『自転車泥棒』は読んでいただけたみたいで、メールでコメントを送ってくれました。

団長画家さんを誘うってのが面白い……

書記:ぜひ参加してほしかった理由がありまして、画家さんは画家ではあるんですけど、一方で昆虫採集を趣味として長年やってきてる方なので、『自転車泥棒』のエピソードの一つに蝶の貼り絵の話があるじゃないですか、ほんと私単純な発想しかしないけども、何か面白い話が聞けるんじゃないかと思って……ただ、いただいたコメントのなかに蝶の貼り絵に関することは一切なくてですね、逆に私びっくりしちゃったんですけども、画家さんらしいといえばらしいんですけども……

団長画家さんは若いころ三島や太宰を読まれてるんですね……こてこての文学青年だ。

書記:ただ一緒にいても文学談義にならないんですよね、あまり話さないんですよ、芸術家だからなのか。まず体験というか、感覚の人なんですよね。蝶に関してはですね、「見に行きましょう」って逆に誘ってくれましたよ。アサギマダラをですね、こんど見に行きましょうって。

団長:ほう、画家さん標本を作ってらっしゃる。うちの親父も蝶やるんですよ。卵とってきたりね、あんまりやっちゃいけないんだろうけど。大学の先生から「この蝶が出現したら教えて」とか依頼受けちゃったりしてね。うちの親父は研究者じゃないんだけども、蝶を集める仲間みたいな感じで。

書記:コレクターじゃないですか。

団長:コレクターです。

書記:すごい。でもその感覚ももう一つわからない……うーん、もう少し。ただ画家さんは標本をしているけれど、標本というモノに執着してるようには思えない。私は見せてもらったことがありますけど、彼の標本箱は個展会場にない場合、全てひきだしの奥にしまい込まれています。奥さんに処分してと言われればおとなしく処分します……なんなんだろ……やっぱり採集して標本を制作するまでのあいだのプロセスを楽しんでいるんでしょうか。だから……危険な水域に踏み込んでしまうのは、こういう画家さんのような人なんだと思いますよ。画家さんとか、ダイアン・アーバスとかね。私は何をするのでもその先にある成果の見通しがまずあって、本とか写真とか、その成果の見通しを支えにして出かけます。撮影にしろ、取材にしろ。だから私は画家さんの昆虫採集と絵画制作とのあいだには何か強いつながりがあるように思えるわけです。でも本人に訊ねると無いというか、そうした意識が希薄なんですね。深いところではつながっているかもしれないけども、彼の考えではあくまで別個のものなんです。

書記画家の絵画作品がプリントされたポストカードを団長に見せる。

画家さんの絵画作品

団長:こういう作品の雰囲気から入ると、アフンの蝶の話はイメージわくな、たしかに。異色じゃないですか、あの挿話は。病院の若い先生と関係を持つところとか、蝶の雄雌がわかるところとか、昆虫的な感覚になっていってるんですね、だから、危ないじゃないですか、後半の森のなかの話とか、語りが木にわっと入っていって、この危なさというのは、たしかに写真論の危なさに近い。

書記:戻ってこれない。

団長:戻ってこれない感じですね。それでも生還してくるんだけど。完全に向こうにいっちゃえば戻ってこれないし、戻ってこれるラインでやっている。

書記:そのラインでいうと、自分のことで恐縮ですけどやっぱり私も戻ってこれるんです。成果として何かを残すという想いが支えになります。

団長:そこですね。

書記:そこです、画家さんダイアン・アーバスは違うんじゃないかと。成果というか、支えそのものに対する何か意識が希薄で、そのあいだの感覚を大事にしている、いつか大事にしすぎてしまわないともかぎらない……その危険。

団長:圧倒的に危ないです。

書記:それが芸術家の体質といわれれば、それまでですけど。境界は、森だけじゃなくいろんなところにありますからね。画家さんといる時間には、そうした境界が少し見えやすくなります。

団長:やっぱり絵画とか、写真とか、読むというか、あまり考えてなかったから、あるんだろうなと思ってたくらいで、さっき画家さんの絵を見て、こういうイメージだよな、と。あの画家さんの絵だと、やっぱりこう、死のにおいが満ちみちてて、子どもらの表情もあどけなさはなくて、ひたすら閉ざされた空間の荒廃した地面に、うつろな顔をした子たちがいて、幾何学的な世界だけど、絵画の受容というか、圧倒的にその世界に引き込む。言葉をそこまで必要としない。読もうとすれば読めるんだけども、テーマも見いだせるんだけども、やっぱりさっき言った危なさで、あっちがすぐそこにあるなという感覚、書記さんの言ってた成果というのは、平たく言えば資本主義の枠組みの中での評価で、自分の位置を与えてくれるもので、それもすごく大事なんだけども、やっぱりこういう絵の世界のなかにずっと浸っていて、ふだんはこう、穏やかな画家さんの雰囲気からはまったくわからないわけじゃないですか、平穏な日常と、隣り合わせの死の世界というのがあって、それと作品がどうのこうのじゃないけども、彼らは慣れちゃってるんですよね、ぜんぜん。ひたすら死にさらされることで生き延びるドゥルーズ的なマゾヒズムの世界だよな、そこから強引に『自転車泥棒』の話に持っていくと、やっぱり後半動物の、戦場でゾウ使いが撃たれて、死ぬ前に頼むんですよね、もう助からないから殺して埋めてくれと、じゃないと苦痛で呻いたら烏が食べにきて呪われちゃうからと。どんどんあっちの世界に近づいていって、語りの目玉の話なんかはグロテスクなものになって、ただ画家さんの絵と違うのは、画家さんの絵は死の世界がきちっと構築されてるけども、『自転車泥棒』のほうではまだそこまで構築されてない、あっちの世界に、一気にいっちゃってる感じがある。読んでいてやっぱり不安になるし、うん、行って戻って、行って、戻って、不安になったら、こんどは一息ついて、そういう運動が小説の原動力で、読むことの快楽にもつながっているんだろうな。

台北

総括
「お前は四十五歳までしか生きられない」。作中で主人公が幼少期に言われた言葉(トラウマ体験)ですが、これは何だったんでしょうか。ひとつわかるのは、三島由紀夫がこの年齢(45歳)でなくなったことです。
三島由紀夫が戦後の日本文学を語る上で大切なのは言うまでもありませんが、いま読む人はそれほどいない気もします。たとえば「鏡子の家」を読んでいる人はどれほどいるんでしょうか。(ちなみに私はまだです)
おそらく2000年代以降で村上春樹を意識しない作家はいないと思われますが、その村上も(明言はしてませんが)三島をバリバリ意識していた作家です。そして呉明益もまた三島の影を随所に感じさせる作家です。「四十五歳までしか生きられない」という言葉は、自らに三島を重ね合わせる試みでもあったのでしょう。
ほかに「英霊」の特徴的な描写や、自分の喫茶店に「鏡子の家」と名付ける青年アッバスなど三島作品の変奏という点では近年まれに見る傑作ではないでしょうか。
またアッバスは写真家でもありますが、アメリカの写真家ダイアン・アーバスを想起させる点を書記氏が教えてくれました。アッバスが店(「鏡子の家」)に展示する自分の写真について「不快感を呼び起こす」と述べていますが、ダイアン・アーバスの写真もどちらかというと「不快」なものと近い関係にあります。そしてダイアン・アーバスは、三島の亡くなった年の翌1971年に自らの命を絶っています。48歳でした。
自転車泥棒』には、「平岡君」なる人物が登場する『眠りの航路』という連作がありますが、こちらに関してはまたいずれ。

[課題本推薦者・団長]

編集後記
タピオカ市場の盛衰から「誠品生活」の日本上陸に至る真っただ中で、『自転車泥棒』の邦訳は刊行されました。タピオカの流行には乗れませんでしたが、台湾的なモジュールに和の文化の上澄みをさらった最新鋭の複合施設の上陸には私も胸おどらせて飛びつきました。「誠品生活」日本橋店はその中核となる書店部を含め、内容はともかくとして全体的になんとなく最高の雰囲気、そしてサービスでした。軽い自転車と重い自転車の両輪で走りたい道があります。たとえば司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾紀行』であれば、おそらくそうでしょう。
今回の読書会は団長さんとのマンツーマンでした。始まってまもなくでしたが、団長さんが「フェティッシュ」と口にしたとき、正直、すでに私は今回の課題本『自転車泥棒』から一本とったような気がしました。「フェティッシュ」、そして「英霊」と、考察の糸口が連打された驚きは、これからも私を何度でも『自転車泥棒』の世界へと連れ戻してくれるでしょう。

[書記]

次回、読書会は8月開催予定、課題本はリチャード・バック村上龍訳の『イリュージョン』です。