村上春樹「街とその不確かな壁」2023年8月

読書会概要
日時 2023年8月26日(土)19:00〜21:00
場所 東京都内 某居酒屋
参加者 団長 画家(初老の人) 奥様(初老の人の妻) 書記
課題本 村上春樹『街とその不確かな壁』     
課題本推薦者 医務

読書会経過

団長:新作はぜんぶ読みましたか?

奥様:がんばって読みました。例のごとく、よくわからなかったんですけど。ファンですか?

団長:ファンじゃないです。ハルキストじゃないです、けど……

書記:私はハルキストに片足つっこんでますよ。

奥様:そうなんだ。

書記:好きです。

画家:医務さんも好きでしたよね。

書記:そう、医務さんが今回の本の推薦者だったんですけど、今日は参加できなくなってしまって残念です。

画家:奥様は昔からね、長い小説読んでたんだよ。ロシアの文豪の……

団長ドストエフスキー

画家:そう、ドストエフスキーとかトルストイとかの長い小説を若い頃よく読んでたみたい。

奥様:一度読みだすとね、なんとなく終わりまで字を追っていっちゃうから。

団長:それ羨ましいですよ、俺は制約がないと読めない、こういう読書会とかないと。

奥様:今は時間があるから。あと若いころね。でも結婚して子育て中は余裕がなくてぜんぜん読めなかった。本を読むっていう習慣がすっぽり抜けちゃって。だから子育て中の十数年間はほとんど読んでなかった。

書記村上春樹以外でしたら、今はどういった本を読んでますか?

奥様:いやもう手あたりしだい(笑。

団長村上春樹、面白いですか?

奥様:うん、読み始めると面白いよね。わけわからないんだけど、なんとなく読み進めていけちゃう。最初は『1Q84』が話題になったときに友達から勧められて貸してくれたから読んで、それからは図書館で借りて。ただ私が行く図書館の本って汚いのよね。

書記:ははは。

奥様村上春樹の本ってこれもう何人触ってんだろうって思うくらい。

団長:手垢にまみれて破れてたり(笑。

奥様:でも買って読むのは……けっこう値段高いし、残っちゃうのもね、買って読むほどじゃないかな。今回はたまたまね。古い本だとね、ネットで安く買えるけど。

画家:奥様がよく読んでる小説家で、篠田節子っていう小説家がいてさ……

団長:ああ、『絹と変容』の。

画家:むかし私が勤めてた職場の後輩で面識があって、仲間内では「せっちゃん」と呼んでた。同じ時期に職場を辞めて、当時チェロか何かやってたのかな……

奥様:チェロを題材にした本を読んだよ。

画家:『絹の変容』はデビュー作だから記憶してるけど、面識はあっても私の方は本はぜんぜん読んでなくて、奥様はよく読んでるんだよね。

奥様:みんな読んだよ、篠田節子さんの書くストーリーは面白い。

画家:一時は紅白歌合戦の審査員席に座ってた。

団長:へえ、直木賞受賞した頃かな。

書記篠田節子さんって何歳くらいの人ですか?

奥様:六十くらいじゃなかったかしら。

書記:紅白の審査員席に座ってたということは、NHKのドラマに原作者として関わったりしてたんでしょうかね。

画家:ああ、そうかもしれないね。

奥様:画家さんはね、若いころいっぱい本を持ってたから読書家なのかと思ったら、ある部分をピックアップして、要するにぜんぶは読まないの、最近でもないけど年とってからわかったんだけど、必要なところだけ拾い読みするだけ(笑。

書記:でも必要なところを抜き出せるってのは、それはそれで凄いことですね。

画家:わがままだから、要するに文学として読むんじゃなくて自分に鎧をつけるような感じでね、「こんなこと言った」「俺もそう思う」「そうだろう」みたいな、若いときですからね、必死で鎧つくって、それであとにたまたま本が並んでただけで、鑑賞もしてないし、ちゃんと理解もしてないんだよね。でもブログなんか見てると「団長」はやっぱりいわゆる読書人で、本の内容によく精通してて……

団長村上春樹って、後期になるとお父さんの影が出てくる。「父親」というキャラクターがよく出てくるようになって、『猫を棄てる』っていう自分のルーツを綴った随筆のなかでは、階級の高い引き揚げ軍人だったお父さんのことが中心に書かれてて、新鮮でした。今回の作品とからめて考えれば、やっぱり父親が出てきますよね。

書記:少年の父親ですね。

団長:そう、第一部で、主人公が十代半ばのときに好きだった女の子とのやりとりを書いてて、その女の子から聞いた「街」の話が出てきて、第一部では家族的なものはあまり出てこないんだけど、第二部になったときに子易さんという一風変わった幽霊が出てきて……それで第三部にかけてイエローサブマリンの少年がいなくなるのをきっかけに少年のお兄さんたちやお父さんが出てくるんだけど、少年はそういう家族的なものとは別の次元で生きてて、それからもう一つポイントなのは母親が出てこないこと、村上春樹の全作品を通じて「母親」が出てこないというのは一つの特徴ですね、「父親」はちょくちょく出てくるようになったけど。

書記:「母親」が表舞台に登場するということは確かにないですね。『街とその不確かな壁』という作品にかぎって言えば、「母親」の存在は仄めかされてはいて、まあ、この作品では少年と唯一話ができる存在として「母親」は描かれていますね、だから余計に登場しないというのがひっかかる、それから「母親」という存在をどうしようもなく強く感じさせるのはやっぱり子易さんの過去のエピソードで、彼の妻なんですけども、その母親的な存在が、事故で亡くなってしまう子易さんの子の、事故当時いちばん近くにいた母親として描かれているというのが何か……その出来事を通じて「母親」という存在を強烈に際立たせているというか……けっして表舞台には登場しないし、物語に明るい面があるとしてもそうした場にはけっして現れない、物語の本筋からあえて遠ざけられている感すらあります。

団長:『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のもとになった中編『街と、その不確かな壁』では、おじいちゃんと娘は出てくるけど、親は出てこない。今回の作品でお父さんは出てくるけど、お父さんのことを気にしない少年が出てきて、その少年は主人公の夢読みの職業を引き継ぐ。こうした引き継ぎが行われるときに家族的な要素は関係してなくて、村上春樹なりの家族的なものに対するメッセージというか。幼稚園の経営者、教育者であるお父さんを少年は無視して、主人公から夢読みという職業を引き継いで、それで突っ切って終わる。

奥様:私はこの作品の出だしがわからなかったんだけど、はじめは若い女の子と男の子が惹かれあってあるとき女の子が壁のある「街」の話をする、その女の子は「影」だったわけでしょう、その女の子はもともと「街」で暮らしてて、現実の世界で男の子に「街」の話をした女の子は「影」という設定なのかしら、それで突然消えちゃったわけでしょう?

団長:今回この作品を読書会でやるということで、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだんですよ、世界の終りという章と、ハードボイルド・ワンダーランドという章と、二つの世界が交互に展開していく構成になっていて、関係のないストーリーなんだけど読んでいくと最終的に合流していく仕組みになっている。その中に、もちろん「街」は出てくるし女の子も出てくる、それで「街」の中の「影」の位置づけももっと整理されてて、「影」と、「獣」っているじゃないですか、一角獣という「獣」がいて、「門番」(門衛)とか、「獣」がなんで門の外にいるのかとか、そうしたことが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではすべて説明されてるんですよ。「影」って何なのかというと、要は、「心」がないということがポイントになっていて、壁の内側に住んでいる人たちは「心」がない人たちという設定で、「影」を失った人たちというのは、「心」を失った人たちという形で、そのかわりずっと、苦しみとか悲しみとは無縁で生きていられる。なんでそういうことが可能かというと、「獣」が門の外に出るときに、人が門に入るときに「門番」から引き剥がされて死んだ「影」を「獣」たちが門の外に運んで、こんどは「獣」たちがその「影」の魂を抱えたまま死んでいく、冬になると。それで、死んでいった「影」の魂の残りかすが「獣」の頭蓋骨にあって、要は「獣」の頭蓋骨に残っている人の魂の残りかすを読むことによって、「街」に不必要な苦しみとか悲しみつまり「心」を大気中に発散し、循環させる。だから「街」の人々が生きるためには「獣」と夢読みという職業が必要になる、といったことが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では種明かしがされているんですよ。でもそうした種明かしは、新作では、村上春樹がいらないと判断したのか書かれていない、そればかりか「街」の定義を微妙に別の意味に変えている。新作で面白いと思ったのは、夢読みがまず継承されていくということと、夢読みという職業が主人公の前にも代々いたことがわかって、夢読みをする人物が代わる、継承されるたびに「街」はその様相を変えていく、というふうに読みとれること。あとこれは新作では出てきてないけど、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の方では、壁のある世界の門の内側に「森」というものが出てくる。「森」にはどうやら森の住民がいる。でも森の住民に対しては、門番(門衛)もあまり関わりたがらない。森の住民とは何なのか、それは「影」が逃げてしまった人たち、つまり「獣」が関わる「影」の処理の仕組みにうまく乗れなかった人たちが「森」の中をさまよっている、といったこと。それを踏まえれば、女の子の失踪の秘密にもたどりつくことができる。

書記:「森」の存在は重要です。解釈の方向性を変えたり、固めてしまったり……あえて新作では詳しく語らなかったかもしれませんね。でも村上春樹の過去のインタビュー、たぶん『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いてまもない頃のインタビューで、彼は「森」を書けたことが収穫だった、というような発言をしています。

画家:僕は『街とその不確かな壁』は読んでなくて、図書館のコピーを書記さんに送ってもらって『街と、その不確かな壁』しか読んでないんだけど、なんか、僕は唐十郎が好きなんだけど、ああいう、日常的な言葉や物を使っていつのまにか不思議な世界に連れていってくれる、そういう部分で似てるなという感じがして、でもここまで話をうかがってるといわゆる「文学を読む」っていうのはそういうことなのかなと、表現も品がいいしね。

奥様:現実の世界と同時進行で、ぜんぜん別の世界が存在する。

画家:素敵、長いものは読めないけどね。

奥様:私は唐十郎の演劇はあまりだめでね、うるさくて。ついていけない(笑。

画家:僕は小説を読むエネルギーについていけない(笑。でも今回こういう経験をさせてもらってよかった。

団長:大学で「読む」環境の中に比較的長くいたけど、「読む」ことって特殊だと思います。でも「読む」のとは別に、圧倒的にわからないのは「創作」で、画家さんが絵を描くときって、いろいろな条件はあると思いますが、まず体が動く感じですか?

画家:私はもともと自己中心的な人間だから、自分が子どもの頃に感じたもの、「寂しさ」ですよね、それにもう一回浸れたら嬉しいなという、ただそれだけの話。

編集後記

10代の終りに読んだ『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が、私の出発点だった。最初に読んだ村上春樹の小説というだけではなかった。
ある場合に一つの長大な物語が文章という形をとって現れ、目の前に立ちはだかることが必然と思えたとき、当時の私は挫折し、絶望した。そしてやたら多くの逃避が、見て見ぬふりが、流し目があり、掠めどったいくつかの短いフレーズが燃え、灰になった。要するに一つの物語のために長い時間を読書に費やさざるをえないことが苦痛だった当時の私に、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説は、はじめて読むことの自信を植えつけてくれた。その自信の根拠が浅はかなものだったとしても、以降の読書遍歴にとって決定的だった。
1Q84』が出版されたとき、私は東京の品川に住んでいて(今は違う)、深夜の台所だけでなく京急線の車内、池畔や歓楽街のカフェなどで読みふけり、あっという間に読み終えた。この本(『1Q84』)は村上春樹作品の集大成であり、彼の文学のすべてをかけて、おそらくこれ以上の発展のないところまで極まった小説であると思った。だからここにきて、著者自身に葬られた中編小説「街と、その不確かな壁」の問題に決着をつけようという彼の想いは自然に受け入れられた。「街と、その不確かな壁」をはじめて読んだとき、すでに前に二作の優れた小説を著している作家のものとしてはとくに冒頭と結末部の若書きに驚いたが、新鮮でもあった。ここでは書けないけども、とにかく「街と、その不確かな壁」は問題だらけだった、読者からすれば良くも悪くも。
6年ぶりではなく、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』から38年ぶりの新作長編『街とその不確かな壁』は、その問題に満を持して取り組んだ著者渾身の成果であり、読者共々の成就になった。

[書記]